交響曲の名曲・名盤, 宇野功芳, 講談社現代新書 1081, 1991年
・有名(名物?)クラシック音楽評論家によるCDガイド。交響曲編。作曲家の生年順に約60曲収録。有名どころはほぼ網羅されていますが、ブルックナーは全10曲入っているのに、ドボ8やシベ2なんかが抜けていたりと著者の好みが多少反映されているようです。巻末に『作曲家別名盤リスト』つき。
・一時期はよくCDを買っていたものですが、最近はさっぱりです。今回こちらを読んでも食指の動くCDは見当たりませんでした。
・「1枚のCDからよくここまで文章を引き出せるものだ」と、同著者に限らず評論家の方々の文章を目にするたびに感心します。多彩な表現はブログの記事にも応用できそう。
・著者は今でも写真のように、まだ50代かそこらの若さだと思っていたのですが、1930年生まれとは、もうかなりの年なので意外に感じました。
・「たしかに情緒的なアマデウスに比べ、ハイドンのシンフォニーはどこか乾いており、素朴で田舎くさいのは事実だが、感銘の度がうすいかといえばけっしてそんなことはない。モーツァルトのように一聴耳をとらえるチャーミングな特徴には乏しいが、何度聴いても飽きない、という点では上かも知れない。充実度がすばらしいからである。」p.10
・「ハイドンの交響曲からいちばん好きな一曲を採れ、といわれたら、僕はこの「第96番」を挙げるだろう。」p.18
・ハイドン99番「モーツァルトを得意にするヨーゼフ・クリップスは、その陶酔的なまでに典雅な感覚を最大限に発揮し、ウィーン・フィルのチャーミングな音楽美を全開させていく。純粋で柔かく冴えた弦はもちろんだが、とくに管楽器の魅惑は筆舌につくしがたい。 メヌエットにおけるホルンとトランペットの貴族的なまでにしゃれた色合い、フィナーレにおける木管群のたわむれなど、ため息が出るほどだし、ここでもウィンナ・ホルンの上品な茶目っ気が最高だ。」p.23
・モーツァルト40番「僕はウィーン音楽院の一室でワルター使用の楽譜を見せてもらったとき、このルフトパウゼの指示を発見して胸ときめいた思い出がある。」p.49
・「ローマ神話に出てくる神々の王ジュピターの足どりのように始まるこの曲は、壮麗、典雅、優美、まことにモーツァルトの最後の交響曲にふさわしい内容と外観を誇っている。」p.53
・「残念ながら「第九」のCDには理想的なものが一枚もない。そのなかにあって、演奏だけをとればフルトヴェングラーが最高だ。」p.88
・「最近はプロ野球選手の背番号に0番が使われるようになったが、交響曲の0番というのはふざけている。 ブルックナーは最晩年に若いころの作品を整理したが、そのとき、忘れていた交響曲の草稿を見つけ、破棄するにしのびなかったのか、「交響曲第0番、まったく通用しない単なる試作」と書きこんだのである。」p.126
・「それではブルックナーが一生をかけていいたかったこととは何であろうか。 それは神が創造した大自然への讃美であり、偉大な神への帰依の感情である。そこには崇高な祈りがあり、神を信ずる者の浄福と、有限の生を享けた人間のはかない寂寥感がある。」p.127
・ブルックナー3番「どの一部分をとっても《楽器の音》がまったくしないのにおどろかされる。金管の強奏でさえそうなのだ。こんなオーケストラ演奏はたとえウィーン・フィルであっても現在ではとうてい不可能であろう。」p.133
・ブルックナー8番「ブルックナーの最高傑作であるばかりでなく、古今のありとあらゆる音楽作品のなかでもベストを狙う名品のひとつだ。」p.148
・「いわんや同時代のマーラーと比較すれば、これは大人と子供ほどの差がある。マーラーの「第九」がよい、「大地の歌」が傑作だ、といっても、所詮は人間世界のできごとであり、ブルックナーの「第八」は神の御業を思わせる。ほとんど大自然や大宇宙の音楽を想像させるのである。」p.148
・「ブルックナーはこの「第九」を、愛する神様に捧げたが、交響曲を神に捧げた作曲家は彼ぐらいではないだろうか。」p.155
・「ブラームスの音楽は私小説だ。ブルックナーはもちろんだが、モーツァルトやベートーヴェンの作品が人間を突き抜けて宇宙に達するのとは反対に、徹頭徹尾、地上の世界にとどまっている。この「第四」はよくも悪くも、ブラームスの作風が行き着いた最後の境地といえるだろう。 朝比奈隆はブラームスについて次のように語っている。 「彼の芸術というのは多分にセンチメンタルなのではないでしょうか。こういう感情は若い人にはわからないだろうし、女性にも苦手のようですね。年をとった男には心の中の宝のようになってくるんです」」p.173
・マーラー「周知のようにこの大作曲家は当時最高の名指揮者であった。いや、むしろそれが本業であり、創作のほうはいわゆる日曜作曲家だったのである。」p.203
・「シベリウスの交響曲というと、なんとかのひとつおぼえのように「第二」「第二」「第二」だ。もちろん悪い曲ではないが、シベリウスの醍醐味からは遠い。どうせ遠いのなら僕は「第一」を推したいのだが、なぜか演奏機会が少ない。音楽界七不思議のひとつといえよう。」p.226
・「交響曲という作曲形式はショスタコーヴィチで終ってしまったように思う。現代の作曲家たちは、この伝統的なスタイルによってものをいうことができなくなってしまったからであろう。」p.246
●以下、「対談『芸術とは娯楽である』 宇野功芳+玉木正之」より
・宇野「でも芸術というのは個の告白です。自分はこう思う、こう感じる、というのが芸術のはじまりで、その世界からいちばん遠いのが平均化ではないでしょうか。」p.252
・宇野「自分で音楽をやる場合は、自分が世界で一番でなきゃ嫌ですよ、やっぱり。そう思わないで舞台に立つのはせっかく来ていただいたお客さんに失礼ではないでしょうか。」p.253
・宇野「やるのと書くのとでは、全然違うよね。」p.254
・宇野「僕の理想は、お客さんが「なんという素晴らしい演奏だろう」と思うことではなく「なんという素晴らしい曲だろう」と思ってくれることなんですよ。」p.262
・宇野「芸術は、所詮娯楽なんですよ。」p.265
・宇野「芸術にいちばん必要なのは自由の精神だけど、それと同じくらい必要なのが謙虚さですね。神に与えられた才能というか、結局は神様の力でやっているようなものですから。人間の力なんて小さいものですよ。」p.266
・「理屈抜きに楽しいとか、理屈抜きに感動するとか、そういう演奏をする演奏家のほうが、僕は本物だと思うんですよ。だから、批評の世界にも、そういう基準があってもいいと思うんだな。」p.268
?かんぜつ【冠絶】 比べるものがないくらい、非常にすぐれていること。卓絶。
・有名(名物?)クラシック音楽評論家によるCDガイド。交響曲編。作曲家の生年順に約60曲収録。有名どころはほぼ網羅されていますが、ブルックナーは全10曲入っているのに、ドボ8やシベ2なんかが抜けていたりと著者の好みが多少反映されているようです。巻末に『作曲家別名盤リスト』つき。
・一時期はよくCDを買っていたものですが、最近はさっぱりです。今回こちらを読んでも食指の動くCDは見当たりませんでした。
・「1枚のCDからよくここまで文章を引き出せるものだ」と、同著者に限らず評論家の方々の文章を目にするたびに感心します。多彩な表現はブログの記事にも応用できそう。
・著者は今でも写真のように、まだ50代かそこらの若さだと思っていたのですが、1930年生まれとは、もうかなりの年なので意外に感じました。
・「たしかに情緒的なアマデウスに比べ、ハイドンのシンフォニーはどこか乾いており、素朴で田舎くさいのは事実だが、感銘の度がうすいかといえばけっしてそんなことはない。モーツァルトのように一聴耳をとらえるチャーミングな特徴には乏しいが、何度聴いても飽きない、という点では上かも知れない。充実度がすばらしいからである。」p.10
・「ハイドンの交響曲からいちばん好きな一曲を採れ、といわれたら、僕はこの「第96番」を挙げるだろう。」p.18
・ハイドン99番「モーツァルトを得意にするヨーゼフ・クリップスは、その陶酔的なまでに典雅な感覚を最大限に発揮し、ウィーン・フィルのチャーミングな音楽美を全開させていく。純粋で柔かく冴えた弦はもちろんだが、とくに管楽器の魅惑は筆舌につくしがたい。 メヌエットにおけるホルンとトランペットの貴族的なまでにしゃれた色合い、フィナーレにおける木管群のたわむれなど、ため息が出るほどだし、ここでもウィンナ・ホルンの上品な茶目っ気が最高だ。」p.23
・モーツァルト40番「僕はウィーン音楽院の一室でワルター使用の楽譜を見せてもらったとき、このルフトパウゼの指示を発見して胸ときめいた思い出がある。」p.49
・「ローマ神話に出てくる神々の王ジュピターの足どりのように始まるこの曲は、壮麗、典雅、優美、まことにモーツァルトの最後の交響曲にふさわしい内容と外観を誇っている。」p.53
・「残念ながら「第九」のCDには理想的なものが一枚もない。そのなかにあって、演奏だけをとればフルトヴェングラーが最高だ。」p.88
・「最近はプロ野球選手の背番号に0番が使われるようになったが、交響曲の0番というのはふざけている。 ブルックナーは最晩年に若いころの作品を整理したが、そのとき、忘れていた交響曲の草稿を見つけ、破棄するにしのびなかったのか、「交響曲第0番、まったく通用しない単なる試作」と書きこんだのである。」p.126
・「それではブルックナーが一生をかけていいたかったこととは何であろうか。 それは神が創造した大自然への讃美であり、偉大な神への帰依の感情である。そこには崇高な祈りがあり、神を信ずる者の浄福と、有限の生を享けた人間のはかない寂寥感がある。」p.127
・ブルックナー3番「どの一部分をとっても《楽器の音》がまったくしないのにおどろかされる。金管の強奏でさえそうなのだ。こんなオーケストラ演奏はたとえウィーン・フィルであっても現在ではとうてい不可能であろう。」p.133
・ブルックナー8番「ブルックナーの最高傑作であるばかりでなく、古今のありとあらゆる音楽作品のなかでもベストを狙う名品のひとつだ。」p.148
・「いわんや同時代のマーラーと比較すれば、これは大人と子供ほどの差がある。マーラーの「第九」がよい、「大地の歌」が傑作だ、といっても、所詮は人間世界のできごとであり、ブルックナーの「第八」は神の御業を思わせる。ほとんど大自然や大宇宙の音楽を想像させるのである。」p.148
・「ブルックナーはこの「第九」を、愛する神様に捧げたが、交響曲を神に捧げた作曲家は彼ぐらいではないだろうか。」p.155
・「ブラームスの音楽は私小説だ。ブルックナーはもちろんだが、モーツァルトやベートーヴェンの作品が人間を突き抜けて宇宙に達するのとは反対に、徹頭徹尾、地上の世界にとどまっている。この「第四」はよくも悪くも、ブラームスの作風が行き着いた最後の境地といえるだろう。 朝比奈隆はブラームスについて次のように語っている。 「彼の芸術というのは多分にセンチメンタルなのではないでしょうか。こういう感情は若い人にはわからないだろうし、女性にも苦手のようですね。年をとった男には心の中の宝のようになってくるんです」」p.173
・マーラー「周知のようにこの大作曲家は当時最高の名指揮者であった。いや、むしろそれが本業であり、創作のほうはいわゆる日曜作曲家だったのである。」p.203
・「シベリウスの交響曲というと、なんとかのひとつおぼえのように「第二」「第二」「第二」だ。もちろん悪い曲ではないが、シベリウスの醍醐味からは遠い。どうせ遠いのなら僕は「第一」を推したいのだが、なぜか演奏機会が少ない。音楽界七不思議のひとつといえよう。」p.226
・「交響曲という作曲形式はショスタコーヴィチで終ってしまったように思う。現代の作曲家たちは、この伝統的なスタイルによってものをいうことができなくなってしまったからであろう。」p.246
●以下、「対談『芸術とは娯楽である』 宇野功芳+玉木正之」より
・宇野「でも芸術というのは個の告白です。自分はこう思う、こう感じる、というのが芸術のはじまりで、その世界からいちばん遠いのが平均化ではないでしょうか。」p.252
・宇野「自分で音楽をやる場合は、自分が世界で一番でなきゃ嫌ですよ、やっぱり。そう思わないで舞台に立つのはせっかく来ていただいたお客さんに失礼ではないでしょうか。」p.253
・宇野「やるのと書くのとでは、全然違うよね。」p.254
・宇野「僕の理想は、お客さんが「なんという素晴らしい演奏だろう」と思うことではなく「なんという素晴らしい曲だろう」と思ってくれることなんですよ。」p.262
・宇野「芸術は、所詮娯楽なんですよ。」p.265
・宇野「芸術にいちばん必要なのは自由の精神だけど、それと同じくらい必要なのが謙虚さですね。神に与えられた才能というか、結局は神様の力でやっているようなものですから。人間の力なんて小さいものですよ。」p.266
・「理屈抜きに楽しいとか、理屈抜きに感動するとか、そういう演奏をする演奏家のほうが、僕は本物だと思うんですよ。だから、批評の世界にも、そういう基準があってもいいと思うんだな。」p.268
?かんぜつ【冠絶】 比べるものがないくらい、非常にすぐれていること。卓絶。