(↑イスラエルの「園の墓」。wikiよりお借りしました)
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなた方のために場所を用意しに行くと言ったであろうか。いってあなたがたのために場所を用意したら、戻ってきて、あなたがたをわたしの元に迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」
ヨハネによる福音書14章1~4節
1ヶ月ほど前に、
教会の一人の女性Hさんについて書いたことがありました。
「余命が1ヶ月」とおっしゃってたHさん。
そのHさんが召されたと連絡が入ったのが、11月4日。
彼女と最後に会ったのが10月2日ですから、本当に1ヶ月ほどでなくなりました。
最期は病院かもとおっしゃってたのですが、
添い寝している息子さんや娘さんに見守られながら亡くなったとのこと。
葬儀は家族葬でということで、
わたしたちは参加しませんが、
日曜日の午後は弔問に行けるというので、
教会の友達と一緒に彼女の家に行ってきました。
まだ納棺されておられず、
ベッドに横になっておられる姿を見ると、
今にも目がパチンと開いて話出しそうな雰囲気。
まさに眠っておられるようなお顔でした。
親族の方々とも話をしましたが、
娘さんも息子さんもとても清々しい顔をされてて、
ホッとしました。
これが彼女が残した最も尊いものではないかと思ったのです。
1ヶ月前に感じたことは以下のブログに記しています。
そして亡くなった今、
わたしはHさんを前に、不思議なことに涙が出ませんでした。
ただただ彼女の去り際の素晴らしさに敬服するばかり。
神々しさすら感じて、
圧倒されていました。
前にも書きましたが、
周りのものに何の未練も後悔も残させない去り際の良さ。
そんな最期がわたしの理想です。
でもきっとわたしはもっとジタバタするに違いない。
でも、願わくは周りのものにあらゆる重荷を下させて亡くなりたいと
強く思いました。
日曜日の昨日は、
キリスト教会では全聖徒主日・召天者記念礼拝日でした。
先に天に召された方々を覚える礼拝です。
彼ら一人ひとりの信仰の証しを思い起こし、
この世で生きているわたしたちも、
彼ら同様に精一杯生きていこうという気持ちに導かれる、
そんな礼拝です。
実はわたしたちの教会は、今年だけで8名の方を天に送りました。
そのこともあって、
今年の礼拝はいつも以上に特別な印象がありました。
キリスト教は、死を終わりとしません。
死んだものは神の元で生きて、
「天において今を生きているわたしたちのために祈ってくれている」のです。
神の前に全ての重荷をおろし、
神の元に憩っている彼らのことを、わたしたちが祈る必要ないのです。
むしろ永遠の安らぎの中にいる死んだ人たちが
現世の荒波の中を生きるわたしたちのために祈っていてくれている、
これはどれほどの恵みでしょうか。
実は、同じ11月4日、
遠くに引っ越されていった一人の信徒の方、Kさんも亡くなったとの連絡が入りました。
わたしの教会では同じ日にゆかりのある人、
二人を天に送ったのでした。
引っ越していかれる前は、
教会学校や幼児の集まりのスタッフとしても関わってくださってた楽しい方でした。
お茶目でさっぱりした性格。
ものづくりが大好きで、バッグやら洋服やら手作りで身につけておられました。
遠く離れましたので、なかなかお会いすることもなくなり、
どうされているのかなとずっと思っていました。
熱海の山の崩落では、すぐ近くにお住まいでしたから、
とても心配しましたが、崩落現場よりもさらに上の方にお住まいで、
停電などの問題だけで難は逃れられたと知り、ホッとしたこともありました。
本当に寂しいです。
でも、全聖徒主日・召天者記念礼拝に参列しながら、
天とわたしたちが繋がっているということを確認し、
寂しさや悲しさの中に佇むのではなく、
ともに神の元に生きている幸いを再度知らされ、
温かい思いに包まれたのでした。
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