続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

古賀春江『窓外の化粧』

2010-11-07 07:05:19 | 美術ノート
 どこが心に引っかかるのか、解けない謎としてわたしの中に残っていた『窓外の化粧』
 昨日、神奈川県立近代美術館・葉山で古賀春江の展覧会ならびに講演会を聞くに及んで、次第にその意図が分かってきた。

 つまりは矛盾、本来、相容れないものの並列、コラージュ手法における主観の構成(主観の真理)。

 ビルの屋上に足をかけて踊るダンサー(少女)の開放的なポーズ。驚嘆と危惧が、ない交ぜに鑑賞者の目を惹く。
 大空は彼女の出現によって範囲を狭めているにもかかわらず、パラシュートの下にいるであろう人間の認識不可能なほどの小ささは、相当の遠方距離であるはず・・・パラシュートは彼女に比して自然な大きさであるけれど、その下にいるであろう人間に比しては巨大なものと想定されるという矛盾。
 コラージュされたすべての映像が矛盾に満ちている。海を行く船、これは上方からの視線で捕らえたものであれば、存在の絶対的真理であるはずの水平線はもっと上に描かれるべきなのに対し、高層ビルは見上げる視点でありそれを手繰ると、曖昧ではあるけれど、左の枠内の年齢性別不肖の人間の胸に絞られる。
 
 分割された景色(状況)を一つに収める不条理。
 限りなく最新の機械文明(技術)が、普遍の海を圧してはいるけれど、一人の自由奔放に踊る少女の足下に存在しているに過ぎないという構図。ある種の超越、否定である。
 船の大きさに比してとてつもなく高い二本の鉄塔・・・通信・交信の象徴だと思うけど、地上か海上、あるいは浮上したものかは想像の範囲を超えない。しかもその一本は折れ、傾く兆しが見える。細い線描のため、ごく静かな光景をかもし出しているが《事件》である。それぞれのパーツは、関連性が薄いにもかかわらず、それぞれの不確定な差異によって不思議な関係を鑑賞者に強要する。
 この《大事件》に近くの船はもうもうと煙を上げて離れ、慌てふためき逃げていく。

 問うことに始まる疑惑の作品は、鑑賞者の古い眼差しに檄を飛ばす起爆剤でもある。

 踊る少女の広げた手・・・これは左下の位置する人の差し出された《手》と、同じ形になっている。
 少女の手は自由解放を意図し、左下の手は一見、制止を意味しているように見える。
 しかし、少女の手は危険・無謀を内在し、左下の手は同意と応援をも示唆している。

 人間の精神は、地上の法則(重力)をも無視し、高く飛翔することも可能である、ということを気づかせてくれる。
 大気圏には重力がある、そして、海中には浮力がある。
 ・・・もしこの景色全体を海に沈めて考えたならば、落下の危険は払拭され、少女は安全を得るに違いない。

 存在の相を変換する・・・物理の世界ではありえないことも、精神世界は自由闊達にその世界を広げる。
 この作品において鑑賞者の視点は廻ることを強いられる・・・古くこびりついた観念からの開放を謳っている。
 新しさは常に現実の否定に始まり固定観念を打破していく。

 窓外・・・作者の視点は窓(現実)の内側にあるけれど、その開かれた視野である精神は、窓外・・・予想外の化粧(粉飾)・・・虚(非現実)を垣間見せている。
 古賀春江の精神の叫びが聞こえてくるような展覧会、叩けば開かれる作品世界である。

『城』268。

2010-11-07 06:26:47 | カフカ覚書
 彼らは、歩きつづけた。しかし、Kは、どこへ行くのかを知らなかったし、なにひとつとして見わけもつかなかった。

 歩く/gingen→gieren/熱望する。
 知る/wusste→Wust/荒地。

☆彼らは熱望した。しかし、荒地はどこにもないし、何ひとつ見わけもつかなかった。