続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

六月になれば・・・。

2014-06-12 06:46:35 | 日常
 六月に入ると八百屋の店先には、らっきょうや青梅が並ぶので、見るとやっぱり購入せずにはいられない。

 青梅(1キロ)を買えば、氷砂糖(1キロ)や焼酎(1.8リットル)も必要になるので、お惣菜の買出しにしては少々荷は重くなってしまう。そうして、やっぱり塩ラッキョウも食べたいとなると大荷物。でも、何とか抱え持って帰宅。

 新聞紙を広げ、ラッキョウの根と茎を落とし皮を剝く。青梅のポッチを一つづつ楊枝で外し、水にさらしておく。
 ラッキョウ(900グラム)の4パーセントの塩、それに水200ccを加えてビンの中へ。
 青梅のほうは、水を拭き取り、ガラス瓶に氷砂糖と青梅、そして焼酎を流し込んで冷暗所へ。

 大した作業ではないのに、大仕事をしたような疲れ・・・。(ああ、それから梅干の梅も・・・)
 紫蘇ジュースを作ったり、梅ジュースを作ったり・・・六月に入ると、何故かせっつかれたようにこれらの作業を進める。

 作業と思うから疲れてしまう。楽しみと思えば心も弾むのに、どうも負の方向へ走りがちな気分。
 食への礼節が欠けているからかもしれない。食べるという営みを軽く見ている傾向があるわたし、朝が来て昼が来て夜が来る・・・この三度の食事に敬虔な気持ちで向き合うことがない。お腹が空いたから習慣として準備をし後片付けをする。そのプロセスに面倒という負の要素を混ぜて、食の神聖さを汚す後ろめたさ。

 
 こんな軽薄な気分で食に向き合うことは、生きることへの礼を欠くかもしれない。

 六月の手作業はまだ中盤。熟した梅の購入を見計らい、この季節特有の香りと空気を愉しみたい。

『ポラーノの広場』364。

2014-06-12 06:37:58 | 宮沢賢治
「すっかり出来てゐます。」小さな白い服の子供が云ひました。

 出来てはスイ・ライと読んで、推、頼。
 小さなはショウと読んで、照。
 白いはハクと読んで、吐く。
 服はフクと読んで、福。
 子供はシ・キョウと読んで、死、教。
 云ひましたはウンと読んで、運。


☆推しはかることに頼り、照(普く光があたる=平等)を吐く(言う)。
 福(さいわい)になる死の教(神仏のおしえ)を、運/めぐらせている。

『城』1650。

2014-06-12 06:11:48 | カフカ覚書
みんなは、ストーヴのまわりに横になった。助手たちは、掛けぶとんを一枚あてがわれて、それにくるまった。彼らには一枚だけで十分だった。というのは、どちらかが起きていて、火をたやさないようにするというとりきめになっていたからである。まもなく、ストーヴのそばはあたたまり、掛けぶとんも要らないほどになった。Kとフリーダは、あたたかくて静かなことで幸福になり、眠るために横になった。


☆つねに覚めた激情を保ち続けるべきである。心からの(真の)自由があり、人として隠すことは全く必要なかった。
 脚光はやがて消えていくだろう。Kとフリーダは死について、何事もないかのように無言で闘っていた。