少女、初潮を見てから男女の関係を知らないまでの短い期間の少女期への偏執的とも思われる執着。画家が見たものは神秘であり、性への衝動という本能である。
イブが木の葉で隠した陰部という女の象徴、口にする前の果実、芳醇さへの押さえがたい願望・・・淫らを抑制し対象(少女)に向き合う画家の生理をいとも冷静に描く。絵の中の少女は明らかに足を広げているが、その意味を知らない。意味を知る画家の眼差しとの対峙がそこにある。
空気、動かない作品の中の少女と画家(あるいは鑑賞者)との距離は近いが、犯しがたい距離である。この緊密は、神聖と呼ぶに値するか否・・・。
『地中海の猫』、人間を仮装した猫は大股を広げて座り、飛び込んでくる最良の魚介を今しも食らおうとする獰猛な欲情に満ちている。天がける虹、遠く聳え立つ灯台、少女は手を掲げ許容を呈している。奮い立つ歓喜の猫の仮面を被った男。(他の作品にも猫がそれとなく鎮座しているが、猫を画家の化身と見ても差し支えないかもしれない)
真正面から衒いなく男の本能をかき立てる数多の作品である。
『夢みるテレーズ』『美しい日々』など、まさしくエロスそのものであるのに、春画とは一線を隔している。なぜか・・・チラッと見せているなどという問題ではない。そこには赤裸々に真正面から向かう生理の純粋さが、極めて密度の高い空気を伴って描かれているからであり、認めざるを得ない本能的な緊迫に抑制の静謐が作用しているからではないかと思う。
融ける前の氷と燃える炎火は、画面の中で時を止めている。それを美しい時間、あるいは神との対話と解釈するか否かは鑑賞者の問題である。(東京都美術館にて)
『法隆寺展』『バルテュス展』ともにアートテラー、トニーさんのお世話になりました。ありがとうございました。
イブが木の葉で隠した陰部という女の象徴、口にする前の果実、芳醇さへの押さえがたい願望・・・淫らを抑制し対象(少女)に向き合う画家の生理をいとも冷静に描く。絵の中の少女は明らかに足を広げているが、その意味を知らない。意味を知る画家の眼差しとの対峙がそこにある。
空気、動かない作品の中の少女と画家(あるいは鑑賞者)との距離は近いが、犯しがたい距離である。この緊密は、神聖と呼ぶに値するか否・・・。
『地中海の猫』、人間を仮装した猫は大股を広げて座り、飛び込んでくる最良の魚介を今しも食らおうとする獰猛な欲情に満ちている。天がける虹、遠く聳え立つ灯台、少女は手を掲げ許容を呈している。奮い立つ歓喜の猫の仮面を被った男。(他の作品にも猫がそれとなく鎮座しているが、猫を画家の化身と見ても差し支えないかもしれない)
真正面から衒いなく男の本能をかき立てる数多の作品である。
『夢みるテレーズ』『美しい日々』など、まさしくエロスそのものであるのに、春画とは一線を隔している。なぜか・・・チラッと見せているなどという問題ではない。そこには赤裸々に真正面から向かう生理の純粋さが、極めて密度の高い空気を伴って描かれているからであり、認めざるを得ない本能的な緊迫に抑制の静謐が作用しているからではないかと思う。
融ける前の氷と燃える炎火は、画面の中で時を止めている。それを美しい時間、あるいは神との対話と解釈するか否かは鑑賞者の問題である。(東京都美術館にて)
『法隆寺展』『バルテュス展』ともにアートテラー、トニーさんのお世話になりました。ありがとうございました。