続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『バルテュス展』

2014-06-15 08:06:23 | 美術ノート
 少女、初潮を見てから男女の関係を知らないまでの短い期間の少女期への偏執的とも思われる執着。画家が見たものは神秘であり、性への衝動という本能である。
 イブが木の葉で隠した陰部という女の象徴、口にする前の果実、芳醇さへの押さえがたい願望・・・淫らを抑制し対象(少女)に向き合う画家の生理をいとも冷静に描く。絵の中の少女は明らかに足を広げているが、その意味を知らない。意味を知る画家の眼差しとの対峙がそこにある。

 空気、動かない作品の中の少女と画家(あるいは鑑賞者)との距離は近いが、犯しがたい距離である。この緊密は、神聖と呼ぶに値するか否・・・。

『地中海の猫』、人間を仮装した猫は大股を広げて座り、飛び込んでくる最良の魚介を今しも食らおうとする獰猛な欲情に満ちている。天がける虹、遠く聳え立つ灯台、少女は手を掲げ許容を呈している。奮い立つ歓喜の猫の仮面を被った男。(他の作品にも猫がそれとなく鎮座しているが、猫を画家の化身と見ても差し支えないかもしれない)

 真正面から衒いなく男の本能をかき立てる数多の作品である。
『夢みるテレーズ』『美しい日々』など、まさしくエロスそのものであるのに、春画とは一線を隔している。なぜか・・・チラッと見せているなどという問題ではない。そこには赤裸々に真正面から向かう生理の純粋さが、極めて密度の高い空気を伴って描かれているからであり、認めざるを得ない本能的な緊迫に抑制の静謐が作用しているからではないかと思う。
 融ける前の氷と燃える炎火は、画面の中で時を止めている。それを美しい時間、あるいは神との対話と解釈するか否かは鑑賞者の問題である。(東京都美術館にて)

 『法隆寺展』『バルテュス展』ともにアートテラー、トニーさんのお世話になりました。ありがとうございました。

法隆寺(祈りとかたち)展。

2014-06-15 07:10:29 | 日常
 仏法の護法神である毘沙門天立像、吉祥天立像などを拝観。
 いかめしさの中にもどこか落ち着いた優しさのある毘沙門天立像、「帯の中央には猛獣の顔が彫ってあります」という学芸員さんのお話どおり他の天部にもそれぞれ虎を思わせる顔が刻まれていた。
 穏やかな面の吉祥天立像には、親しみやすい母なる優しさを感じ、しばし感涙の心地。

 聖徳太子の二歳像を初めとして、聖徳太子が神格化された経由に納得のいくような複数の太子像が並んでいた。
 法隆寺金堂壁画(模写)の精密な模写にも圧倒されたけど、最も感動したのは飛鳥時代の平絹幡残欠、当時の布地(織り/染め)染が残っていたこと自体に感激、長く秘仏とされていた法隆寺ならでの逸品。

「夢違観音像とかは静岡(県立)美術館のほうで・・・、こちらはちょっと」と学芸員。いえいえ、飛鳥時代の仏像や壁画には十分伝わる空気がありました。
 広目天立像、多聞天立像との対峙にもステキに心響くものがあって、嬉しく拝観いたしました。(東京藝術大学大学美術館にて)

『ポラーノの広場』367。

2014-06-15 06:58:19 | 宮沢賢治
烈しく鳴って、アセチレンは燃えはじめたのです。その時です。あちこちの工場の笛は一斉に鳴り、子供らは叫び、教会やお寺の鐘まで鳴り出して、それから電灯がすっと消えたのです。


☆裂(ばらばらに離れる)冥(死後の世界)への念(思い)がある。
 二つの講(話)を適(あてはめる)。
 逸(隠して)再(重ねた)冥(死後の世界)は、詞(ことば)で共に協(あわせている)。
 教(神仏のおしえ)を開くと、示(人に教える)照(普く光があたる=平等)がある。

『城』1653。

2014-06-15 06:27:33 | カフカ覚書
彼は、大声をあげて上半身を起すなり、前後を忘れて助手に一発びんたをくらわせたので、相手は、泣きだしてしまった。ところで、事情は、すぐにあきらかになった。

 びんた/Huaustschlag→Vast schlag/荒地、衝撃。

☆助手(のう、知覚)は、先祖のこのような荒地の衝撃に思慮を失い、このような不完全な(曖昧な)叫び声をあげ、泣きだしてしまった。ところで、それらはすぐ解明された。