月イチの歩こう会…歩き通せるかどうかの不安で肩こりになるほどの萎縮。
それでもその日になれば、メンバーの笑顔に押されてその気になるから不思議。
横須賀中央駅デッキに集合し、上町の坂を上がり緒明山公園、不入斗、はまゆう公園~大明寺~平作~衣笠山へ。
日曜日にも「北久里浜桜祭り」に行ったけど桜は一分咲き、三日後の昨日ではまだまだと思っていたら、かなり開花し、むしろ初々しい感じ。
子供の頃、家族で桜見物に行ったことがある。ひとしきり飲んで食べての帰り道、父の友人に遭遇。その友人の下げていた一升瓶を見ると、
「お前たちは帰りなさい」と言い残し、友人の家族について言った父の後ろ姿を今も忘れない。同じ道、同じ勾配の坂道の景…もう六十年以上も昔の話を昨日のことのように思い出してしまった。
8.5キロの行程、難なく歩き通し、気分は最高。
つくづくメンバーの有り難さを噛みしめた昨日の「歩こう会」でした。
『フレッシュ・ウィドウ』
新鮮、なり立て、元気…な未亡人(?)、この表現は珍しい。
夫が死んだ瞬間、未亡人が誕生する、きわめて新しい呼称の展開である。
ミニチュアの窓には黒のなめし皮が張られている、つまり窓ではあるけれど、内外が遮断されている景である。
フレッシュ・ウィドウは、この窓のどちら側にいるのか、窓そのものが彼女自身なのだろうか。少なくとも一人の男が死んだという通告である。
黒い遮蔽には、秘密の隠ぺいが隠れている。しかし、窓というのは開閉自由な行き来を許容する空間を有効にするものである。
デュシャンは《わたしの中の男は死んだ、そしてわたしはピカピカの新鮮な未亡人(女)に変貌した》と言っているのではないか。(もちろん行き来は自由である。)
(写真は『DUCHAMP』TASCHENより)
水仙月の四日
雪婆んごは、遠くへ出かけて居りました。
☆出(現れる)船の月、死を化(教え導く)。
説(はなし)の場は掩(隠しているので)推しはかることが、拠(よりどころ)である。
※水仙月の四日…水仙の咲くころの四日は月が地上に垂直に船の形になる。(26夜/26日の月も同じ)朔日は、黒い月、2.3.4日目辺りで船の形がくっきりする。そしてこの船には三観音が霊魂を迎えに降臨するというのではないかと思う。
「もちろんですわ」と、オルガは答えた。「親切で思いやりのあるお役人がいるなんて、とんでもないは葦ですわ。わたしたちは、まだ若くて世間知らずでしたが、それぐらいのことはわかっていました。むろん、父だって知っていたのですが、たいがいのことと同様、このことも忘れてしまっていたのです。
☆「はい」と、オルガは答えた。「そのような人たちに憐みがあるなんて話はありません。わたしたちも未熟でしたが、分かっていました。父だってほんとうは分かっていましたが、多くのことと同じように忘れてしまっていたのです。