京急汐入駅そばの喫茶店での個展を拝観、覗いてみた。
「ご本人がいらっしゃいますよ」と店主。やおら立ち上がった先生。(う~ん、数年前三浦横須賀教育会館で「本を作る」という講座を受講した時の先生らしいけど、容姿の記憶が全くない)
「私は段ボールフェチで、段ボールを見ると何か作りたくなるんですよ、」(との言葉どおり、世界一簡単な本づくりだった)
すごく楽しい先生だという印象があって、いつか機会があれば…と思っていたところの再会。
「今は、茶紙の薄い段ボールを使ってあれこれ捻りまわしています。これが楽しいんですよ、毎日一作品づつ作っています。着色したり曲げたり貼ったり切ったり…もう自在に楽しんでいます。『ちょっといい線が出たな』とかね。絵の方はアクリルで、ここにあるのはスケッチブックの表紙に描いたものをプリントしたものですが、まあ、三千枚は描いたでしょうね。」
先生のお話は立て板に水、留まることを知らない。
「退職したての生徒さん、何を言うかと思ったら『一本目の線はどこから引いたらいいでしょう』って言うんだ・・・延々。
先生のお話よく分かります。わたしもそうありたいと常々感じていますけど、それがなかなか難しいんです。
楽しいお話、ありがとうございました。先生の域に近づきたいです。昨日もダメでしたけど今日から・・・難しいですね、でも目指していきたいと思います。
『各階に水とガス』
ロベール・ルベル著『デュシャン伝』の表紙に取り付けられたエナメル版。
各階に水とガス・・・19世紀のフランスのアパートに取り付けられたエナメルの看板の模造ということである。
おそらく最新の設備というキャッチフレーズだと思うが、なぜそれがデュシャンを象徴するような言葉であったかが問題である。
水とガス、水は三態の変化を余儀なくされるが、空中にも気体(水蒸気)として存在するし、ガスは当然気体という意味だから、水もガスも当たり前にどこにも存在している。(もちろん当時のフランスのアパートの室内にも)
すでに存在しているものをことさら「有ります」と明記するのは、存在の形態や種類が異なるということである。
同質のものが、文明の進化により、在るがままの形を有効手段に変換される。下に落ちるしかない水を各階という上方へ押し上げる技術、高圧の気体や液化ガスを貯蔵するボンベを備えるという技術によって、『水とガス』は、ただの「水とガス」ではなくなっている。
つまり、「水とガス」は二つのイメージが重複する。持ち続けた概念は否定され、新しい現存が概念を修復、塗り替えていく。
水とガスに対する概念が二重の意味をもって存在することに、《言葉と実存》の振幅を見出したデュシャンへの表敬としての『各階に水とガス』である。
(写真は『DUCHAMP』TASCHENより)
雪には風で介殻のやうなかたがつき、その頂には、一本の大きな栗の木が、美しい黄金いろのやどりぎのまりをつけて立ってゐました。
☆説(はなし)は、普く解(バラバラに離れる)を較(くらべる)。
講(はなし)は、逸(隠れて)翻(形を変えて移している)。
題(テーマ)の律は、黙って備(あらかじめ用意している)。
講(はなし)は、襟(こころのなか)に留まっている。
彼にすれば、オルガの話を聞いているうちにとてつもなく大きな、ほとんど信じかねるような世界がひらかれてきたので、自分のささやかな体験でその世界にふれて、その世界の実体とをもっとはっきり確かめてみようとせずにはおれなかったのである。
☆オルガの打明け話によってほとんど信用できない(不明な)世界に納得した。彼は自分自身の小舟の経験に惑わされ、約束することはできなかったが、全く同様に自分自身にはっきり納得させたのである。