横断歩道で信号待ちをしていたら、傍らの下校時の小学生が
「僕、子供のいい名前を考えたんだ。インドネシアのことも入れてね」と言っているのが聞こえたので、
「どんな名前?」と、わたしが聞くと、
「あっ、知らないおばさんだ」というので、
「知らないおばさんだけど、いい名前、聞きたいなぁ」というと、
「うん、男の子だったら〇〇(忘れてしまった)、女の子だったらリビアンっていうんだ」とインドネシア人らしい男の子が笑った。まだ二年生くらいの男の子が将来のことを夢想している感じが可愛らしかった。
また、家の中にいて、外で遊ぶ子供たちの声を聞いていると、どうも女の子が優勢で
「どうしてぼくと遊んでくれないの?」なんていう男の子の声が聞こえた。
「うん、しょうがないな。付いてくるだけならいいよ」なんて威張っている女の子の声も続いた。
近頃は子供の声を聞く事が少ない。少子化なのか、過疎化なのか・・・子供の声を聞くと、ついつい耳をそばだててしまい、郷愁に駆られる昨今である。
『螺旋のある円盤』
7枚の不ぞろいの紙製円盤、直径は21.6から31.7㎝、青色の紙製円盤の上に取り付けされ、厚紙の上に固定。108.2×108.2㎝(『DUCHAMP』注より)
ヒューマンスケールでこのくらいの大きさ、このくらいの距離間で見ると設定された作品。
しかし、どこに焦点を当てればいいのか。たしかに中心はある、しかし、周囲の円盤がどうしても視角に入り込んでくるし、第一全体を以て作品である以上中心点の存在に執着すべきものでもない。
全体を視野に入れると、ひどく不安定な気分になる。なぜか奇妙に動き出すのを感じ、またその動きが単調でなく、それぞれ個別だからである。
つかみどころがなく、静観できない。
7つの個性ある円盤が一つの円盤の中に規則性をもって添付されているが、螺旋ゆえの動きにより、微妙な回転を感受せざるを得ない。
作品は《静止状態》であるにもかかわらず、見ることにより始動し、不思議なリズムを感受させる。
《無いが有る》という状態を作り出す装置である。
(写真は『DUCHAMP』TASCHENより)
水をたして、あとはくつくつくつと煮るんだ。)ほんたうにもう一生けん命、こどもはカリメラのことを考へながらうちの方へ急いでゐました。
☆推しはかると赦(罪や過ちを許す)が逸(隠れている)。
照(あまねく光が当たる=平等)である冥(死者の世界)の講(はなし)は、法(神仏の教え)で救われる。
お役人たちは、非常に高い教養を身につけていますが、まったく一面的なのです。自分の専門分野のことだと、ひと言聞いただけですぐさま全体を見ぬいてしまいます。
☆終わり(死)は予言者の心象ですが、先祖の死は先祖の言葉とまったく同じ考えに基づいています。