愛犬家は多く、家の前を散歩する人も多く見かける。
Sさんも、子供のころから家に犬が居なかったことはなく、自身も犬好きらしい。
隣家から啼き声にクレームをつけられ、毎日、実家に預けてから出勤したという。
「犬を飼っているとね、格安の旅行に行っても、犬を預けるホテル代の方が高いの。それにね、ちょっとした不具合が出ても保険がきかないから…相当な出費を覚悟しないと」とこぼした。
先日など、S家の庭を見て「もう桃の花も終わりね」と言ったら、
「以前は花桃だけじゃなく、実の生る桃の木もあったのよ。犬が動かなくなっちゃって病院へ連れて行ったら、・・・お腹に桃の種があるって・・・切開して取ってもらったわ。その時も家の中の有り金みんな持って行ったの、22万円…でも、足りなかったの。」
「・・・。」
「それでも、犬がいないとだめなの」と、Sさんは笑った。
以前、バスの中で「犬が死ぬまでに200万円かかりました」という話をしていたご婦人がいらした。犬ってお金持ちじゃないと買えないんだと…ビックリ、そして、ため息をついたことでした。
『プロフィールの自画像』
黒色の紙の上に色紙を添付(『DUCHAMP』注より)
黒という闇/無の中にベージュの色紙が添付されている。添付された色紙に刻まれた形を見ると不明であるが、その不明な形は、黒色の無の景色から人の顔の横顔を描き出している。
黒い台紙は《無》であるにもかかわらず、《有/横顔》を想起させ、添付された紙の形は《不明》であるにもかかわらず、黒い台紙との関係性で《有/横顔》を生み出す要になっている。
プロフィール=自画像であり、ある意味重複したタイトルである。微妙な重複は二枚の紙の重なりの微妙さにも通じる軽妙な心理が働いている。
《有ると思えば無く、無いと思えば有る》この感覚の認識が『DUCHAMP』自身である。
(写真は『DUCHAMP』TASCHENより)
その光はまつすぐに四方に発射し、下の方に落ちて来ては、ひつそりした大地の雪を、いちめんまばゆい雪花石膏の板にしました。
☆講(はなし)の詞(言葉)は、法(神仏の教え)を発(はなつ)。
赦(罪や過ちを許す)果(結末)は、法(神仏の教え)の絡(すじみち)に頼る他意である。
質(内容)を接(つないでいく)説(はなし)である。
荷(身に受ける)責(咎め)を考(思いめぐらせ)、判(可否を定める)。
だって、これは、しごく当然のことですわ。自分に関係のある小さなお役所仕事、お役人なら肩をすくめるだけで片づけてしまうようなごく些細なKと柄を見つけてきて、それをとことんまで理解してみようとしてごらんなさいな。一生涯それにかかわっていても、とても理解できっこないにきまっています。
☆死は理解できます。でもそうした事そのものが、小舟の使命の事柄なのです。先祖の死は小ばかにして済ますようなごく小さな事柄ですが、その原因を理解しようとしても、先祖全体が活気づき、終わり(死)が来ることがないのです。