小鳥の鳴き声は可愛い。ヒヨドリなんかはちょっと残念な鳴き声だけれど、総じて小鳥の鳴き声には癒される。
ただヒチコックではないけれど、小鳥も集合体(百くらい)になると、それはもう恐怖に襲われるほどで、たかが小鳥ではなくなる。
美しいキセキレイやカワセミはどんな鳴き声なのか聞いたことがないし、集団でいるのも見たことがない。どんなお宿に帰っていくのだろう、夢想するだけでも楽しい。
やっぱり圧巻は《ウグイス》に尽きるかもしれない。藪の中にいるというウグイスは見たことがなく、梅にウグイスは、梅にメジロの間違いかもしれない。
鳥の鳴き声で鳥の名を当てる方がいるけれど、その域まではとても行き着かない。
テープにとって聞かせてくださったり、ちょっとしたポイント(色や形)の差異をプリントしてくださった博物館の先生もいらしたけれど、さっぱり・・・のわたし。
バード・ウオッチング、春の野山を探索するって最高の楽しみ。
『与えられたとせよ:⑴落ちる水⑵照明用ガス』
アリストテレスの考えた四元素は《水・土・空・火》であり、五輪は《地・水・火・風・空》である。科学の解明がなければ現世の成り立ちは究極ここに留まるに違いない。
落ちる水・・・すなわち雨(水)と地(土)
照明用ガス・・・すなわち火・風・空(太陽)
このライフラインが、生物の生命をはぐくみその歴史・連鎖を支える基盤に他ならない。
『与えられたとせよ』この言葉は微妙に違和感がある。「もし、与えられていたなら」(こうなる)というのでもなく、「与えられていたとせよ」は、与えられていたかもしれないし、与えられていなかったかもしれないという曖昧な領域を指す過去形である。
この作家の視点は宇宙のどこか遠い任意の所にあり、地球(現世)を眺めているのではなく、地球(現世)を架空の想定として置いている。地球の億年(初めから終末まで)を括って夢想しているのである。時空を超えた未来から物申している。
覗き穴の転換点、作品は等身大の空間だけれど、その対極は無限宇宙にある。
デュシャンの構想に驚愕している。
デュシャンはこの作品を愉しんで作ったに違いない。
雪狼どもは頭をふつてくるりとまはり、またまつ赤な舌を吐いて走りました。
☆説(はなし)から漏れる悼(死をかなしみ)惜しむ舌(ことば)の途(みちすじ)が総てである。
だって、そういう可能性がすこしでもあるものなら、あそこの街道は、請願者でうようよしているにちがいありませんもの。しかし、こんなことはまったく不可能な話で、それぐらいは小学生だっにだってわかることですから、あそこには猫の子一匹いないのです。
☆何か遠く離れたところ(死界)に可能性のある方法があるのなら、来世では激しい口論をする請願者が群がっているに違いない。当地では不可能な事柄であり、すでに基本的な教養を身につけていても、来世では、全くの無なのです。