「だんだん」
「だんだんね、」と相槌を打つ。
だんだんボケ症状が出て、生活全般において緊張感が緩んでくる。
先日友人がJR石川町駅で大宮方面行きという案内を見て
「大宮へ行くって横浜は通るかしら。」と言ったけど、中華街辺りはお互い何回も来ているし、第一横浜駅を経由して来たのに、この心配である。
「近頃、『新聞なんかとらない』って言っている人がいるけど、ごみを包んだりするときどうするのかしらね」という。(そこなんだ)
こんな話はともかく、分からないことだらけでため息をついている。
ゴダール、フェリーニなどの監督作品、前衛映画・前衛絵画・・・昔は見るだけで済んだけど、今の前衛機器は自分が何かしなくては参加できない。
音楽も乗れないし、覚えられない。
ずずっーと後退、後ずさりの現況。もうとっくにボケ症状はわたしを蝕んでいるのかもしれない。
まぁ、いいか。元気出して行こう!!
『埃の栽培』
栽培というのは人が意図して育てることであるが、降り積もった埃に人の意図が関わっているとは考えにくい。
《何もしないこと》が意志であると言えば、可逆的には正しいことになるのだろうか。(もちろん不可逆の現象ではある)
降り積もった埃は、時間と空間の経過を沈黙のうちに証明している。しかしこの粉塵は、さらに量を増していくかもしれないし、人に踏まれたり、風に吹き飛ばされたり、湿気(水)による変化を余儀なくされるかもしれず、一時的な現象を留めているに過ぎない刹那である。
主張なき現象への眼差し、在るが無きに等しい無のような現象。それを写真に収めるという行為は、ある意味《無の存在証明》である。
(写真は『DUCHAMP』TASCHENより)
お日さまは、空のずうつと遠くのすきとほつたつめたいとこで、まばゆい白い火を、どしどしお焚きなさいます。
☆過(あやまち)は悪である。縁(かかわり)を吐き、過(あやまち)を憤(いきどおる)。
ところが、ほかの部局の事柄になると、長時間にわたって説明してやっても、あるいは丁重にうなずいてみせるかもしれませんが、ひと言もわかってくれないでしょう。
☆ところが先祖のほかの区分の事柄は数時間説明しても、きちんと肯くだけで、小舟という言葉を理解できないでしょう。