続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

ボケ症状。

2017-04-12 07:17:11 | 日常

「だんだん」
「だんだんね、」と相槌を打つ。

 だんだんボケ症状が出て、生活全般において緊張感が緩んでくる。
 先日友人がJR石川町駅で大宮方面行きという案内を見て
「大宮へ行くって横浜は通るかしら。」と言ったけど、中華街辺りはお互い何回も来ているし、第一横浜駅を経由して来たのに、この心配である。

「近頃、『新聞なんかとらない』って言っている人がいるけど、ごみを包んだりするときどうするのかしらね」という。(そこなんだ)

 こんな話はともかく、分からないことだらけでため息をついている。

 ゴダール、フェリーニなどの監督作品、前衛映画・前衛絵画・・・昔は見るだけで済んだけど、今の前衛機器は自分が何かしなくては参加できない。
 音楽も乗れないし、覚えられない。

 ずずっーと後退、後ずさりの現況。もうとっくにボケ症状はわたしを蝕んでいるのかもしれない。
 まぁ、いいか。元気出して行こう!!
 


デュシャン『埃の栽培』(マン・レイによる写真)

2017-04-12 06:48:58 | 美術ノート

 『埃の栽培』

 栽培というのは人が意図して育てることであるが、降り積もった埃に人の意図が関わっているとは考えにくい。
 《何もしないこと》が意志であると言えば、可逆的には正しいことになるのだろうか。(もちろん不可逆の現象ではある)

 降り積もった埃は、時間と空間の経過を沈黙のうちに証明している。しかしこの粉塵は、さらに量を増していくかもしれないし、人に踏まれたり、風に吹き飛ばされたり、湿気(水)による変化を余儀なくされるかもしれず、一時的な現象を留めているに過ぎない刹那である。

 主張なき現象への眼差し、在るが無きに等しい無のような現象。それを写真に収めるという行為は、ある意味《無の存在証明》である。


(写真は『DUCHAMP』TASCHENより)


『城』2608。

2017-04-12 06:30:13 | カフカ覚書

ところが、ほかの部局の事柄になると、長時間にわたって説明してやっても、あるいは丁重にうなずいてみせるかもしれませんが、ひと言もわかってくれないでしょう。


☆ところが先祖のほかの区分の事柄は数時間説明しても、きちんと肯くだけで、小舟という言葉を理解できないでしょう。