『与えられたとせよ:⑴落ちる水⑵照明用ガス』
デュシャンの最大の課題、それは「存在とは何か」である。
水地球である星に生まれた生命体の謎への究明。自身さえも謎であり「在ると思えば在り、無いと思えば無い」という視点から、まるですべてが幻想であるかのような錯覚を抱かせる。
存在そのものが《空》であり、『与えられたとせよ』と、まるでこの世が架空の設定であるかのよう感想である。
《すでに与えられている》ことに対して、『与えられたとせよ』と言う。この解釈は難しい。
(わたしはここに存在している)、しかし(あなたはここに存在しているとせよ)などと言われても困惑してしまう。では、実体はないの?実体はどこに?と言うように実存というものが宙に浮上してしまうという現象をもたらす表現である。
デュシャンは《見えるもの》を《言葉》によって、《見えるものが隠している内実》を露見させている。その内実が(虚無)であったり(根本原理)であったり、見る角度によって変形をきたしたりもする。
落ちる水は気体として不可視にもなり、照明用ガスは灯りとして見えるが本来見えない気体である。
裸婦の性器は本来隠すべきものであるが、作品においては露出というよりクローズアップされている。
見えるものと見えないものの混在の景を秘かにも宇宙スケールで提示し、黙したまま語らないデュシャンに震撼とするものである。Ah・・・。
「カシオピイア、
もう水仙が咲きだすぞ
おまへのガラスの水車
きつきとまはせ。」
雪童子はまつ青なそらを見あげて見えない星に叫びました。
☆遂(やりとげる)には、千(たくさん)査(調べ)推しはかる。
出(あらわれる)赦(罪や過ちを許す)説(はなし)である。
導く詞(言葉)は、照(あまねく光が当たる=平等)を兼ねている。
現れる償(あがない)は、経にある。
もっとも、だれもいないということが、かえって父の希望に油を注いだのかもしれません。父は、自分の希望をやしなう糧をどこからでも見つけてきました。いまの場合は、そういう糧がとくに必要でいた。健全な常識さえあれば、こんな計画を大まじめに練るような真似はとてもできなかったでしょう。ちょっと考えただけでも、まるで不可能だということくらいは、はっきりわからなかったところです。
☆たぶん、父は希望を強め、つねに膨らませていました。ここでもまた予言は必要でしたが、先祖の健全な思考は偉大な熟慮をもってしても完全ではありませんでした。すでに彼には不必要であり、はっきり知ることは不可能でした。