九月、夏のあいだじゅうお休みだったサークルの開始。
開口一番「この頃は疲れやすくて、この暑さに足だけは冷えて湯たんぽ入れているの」と、Aさん。
「わたしはそこまでいかないけど、歩くのに何かふらふら右へ傾いたり左へ行ったり…」と、Bさん。
「わたしなんか、動かないでいたらエコノミー症候群。足の血栓が肺に来たら死ぬらしいわ。アハハハ」とバカみたいに笑うわたし。
もうほんと、壊れかけた話ばっかり、笑えないよ。
さんざ話して、結局「元気出して頑張りましょうね」
「展覧会でも行きましょうか」「そうね、何とか言う…」「何、何?」「えーと、なんか度忘れしちゃったわ」「秋ですもんね、どこか、これからは行って見ましょう」
頼りない会話、《どっか行こう、動かないとね》
つくづく人生も秋・・・。
でも、元気出して頑張りましょう!!
『自由に入口で』
八枚のパネル、八つに仕切られたそれぞれの光景は等しい大きさを占めているように見え、それらは偽空間として奥行きのある空間を作りだしている。
各八枚はそれぞれ、裸婦(胸部から陰部まで、性感帯の露呈)・林(自然/地球/現世)・木目のある板張り(棺→死を暗示)・雲の散在する青空(宙宇/来世)・馬の鈴(言語/主張/伝説)・集合住宅の窓(画一化された思想/閉塞)・炎(情熱)・刻まれた暗号(DNA/人類の歴史、連鎖)を提示している。
天井は抑圧/制圧、床に置かれた大砲の射撃台は強力な意思/精神である。
『自由の入口で』ということは、まだ自由ではないということである。
この八枚の中でどれを撃ち抜けば《自由》の扉が開口するのだろうか。この至近距離からでは全体を崩壊させることは困難に思えるが、一枚を撃てば全体が倒壊するのだろうか。その選択も自由に委ねられる。
自由は本来与えられているものであるが同時に責任が発生し、それが束縛や強制を生む傾向をを形成する。
『自由の入口で』、人はその重さを考える。
大砲をもって撃ち抜けば、真の自由を得、真の解放へと開かれるのだろうか。
仮に撃ち抜いてとしても、再び同じ光景を目の当たりにするのではないか。
撃ち抜いた先の光景を誰も想像することができないが、現状打破のエネルギーは常に《自由》を希求している、そしてそれは常に入口でしかないのかも知れない。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
山男はもうすつかりかはいさうになつて、いまのはうそだよと云はうとしてゐましたら、外の支那人があはれなしはがれた声で言ひました。
☆太陽の談(話)を運(めぐらせている)我意である。
詞(言葉)を納める図りごとで、照(あまねく光が当たる=平等)を運(めぐらせている)。
しかし、この二年間は、ほかの点ではちっとも得るところがありませんでしたが、早くませ、早く大人になったことをいいことだと言うとすれば、バルナバスにはいい薬になりました。ええ、バルナバスは、たいていの大人たちよりもまじめで、分別があります。
☆バルナバスは有益に働き、有益であることを望みましたが、何の効果もありませんでした。より古い早期、先祖の人たちの初めは、みんなまじめで賢明で勇気があふれていました。