もともと記憶力のいい方ではなかったから、忘れて当たり前のユルイ感覚でいたけれど、近年はとみにそれがひどい。
即、忘れる。
もう何が何だか分からないほどボオッーとしている。
友人たちも同じ傾向で「一日中探し物をしているみたい」と、そっくりそのままわたしと同じ状況の報告。
これは精神(自覚)の問題ではなく、物理的変化なのだと思う。その崩壊状態が見えないから、自分のせいにして嘆いているだけかも知れない。
記憶力の高さには数値があるけれど、忘却力は限りなくゼロに近づくだけだから比較して自慢(?)もできない。
解決策はあるか?
《なるようになる》という自然法則に身を任せて焦らず悲しまずにゆったり行きたい、という老境。(老境が味わえるなんて人生の佳境だネ)
『炎の帰還』
仮面を被った山高帽の男が巨大化し、街を踏むようにして現出。街も空も真っ赤に燃えている、男は踏むという重力を持たないような軽さ…否、縮小された仮想の街なのかもしれない。
男は頬杖をついて何かを見つめており、片方の手には一輪の薔薇が・・・。
バラは美の象徴であり、花言葉は《愛情》である。
世界中を見渡しても、あなたほどの美はなく、やっぱりあなたを愛している。
『わたくしの情熱、総てをかけてあなたを愛しています』
というマグリットの妻への告白ではないか。(元の絵を借用して描かれた本物の告白)
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
「おまえはするとやつぱり支那人だらう。支那人といふものは薬にされたり、薬にしてそれを売つてあるいたり気の毒なもんだな。」
☆詞(言葉)を納める図りごとである。
詞(言葉)を納める図りごとは、約(取り決め)である訳(ある言語をほかの言語に言い換える)を媒(仲立ち)にして記を読むことである。
あるいは、法規集かなにかをしらべていて、大事な箇所を見つけると、力まかせにその本をたたきます。すると、あのせまい場所で可能なかぎり、ほかの役人たちも走り寄ってきて、本のほうに首をのばします。
☆あるいは本で先祖の重要な個所を見つけると、その小さなものを可能な限り大きくし、模造の小舟の方へ進んで行くのです。