紙芝居講座【第三学期】
今回は高齢者向け紙芝居の講義…受講していて(なるほど)と、わたし自身うなづくことしきり。
畠山宣子先生の『コスモス』、片岡直子先生の『おどりばダンスホール』の高齢者向けの紙芝居2作品を見せて頂いた。子供向けとは異なる作風にハードルの高さを実感。
わたしを含めた高齢者は街頭の紙芝居で育っている。懐かしく過る子供時代の思い出や今までの人生を彷彿とさせる画面や言葉・・・。
そんな感傷に浸ること以上の更なる突破口の発見は、やっぱり(人を恋する)柔らかく初々しい感情の保持だということが、『おどりばダンスホール』に伝えたいメッセージがありました。
挑戦し、人との出会いをポジティブに受け入れていく。それは老若男女すべてに境界線はなく、諦めて感情を打ち消し孤独に過ごしてはいけないと。
畠山宣子先生、片岡直子先生、心に染み入る授業をありがとうございました。
余談ですが、高齢者(戦後の激動を生き抜いた人々)との紹介にズキッ。美しくしとやかな義姉がよその畑の芋を頂戴して…という悲話を思い出しました。
『絶対の探求』
平原に一本の木があるが、枝葉は、平面(二次元)であり、葉脈のみが一枚の葉の形に描かれている。赤い夕陽の大地、山々は平たく均一な高度をもって並列している。
すべてが経験からくる情報の則を外している。
樹の異常な高さ、平面の樹葉なんてものは無いし、その形態が一枚の葉の形などということもあり得ない。しかもその細かい枝葉まるで樹根なのである。
荒地が整地したような平地であるのもおかしいし、同じ高さに揃う山々も見たことがない。
知る限りの情報の否定、有り得ない光景のなか、唯一太陽の昇降だけが信じられる手掛かりである。
全てを否定し尽しても、太陽だけは動かし難い存在であり、無条件の真実である。
『絶対の探求』、絶対に無いと思われる光景(現象)を並べ尽しても、万が一、億に一つ…《絶対に無い》と断言できるだろうか。人間の叡智は、何かを創出し、いかなる風景に変換させるかの未来を持っている。
否定・肯定の限りを探求していくと、残存する絶対的な肯定は存在そのものの基本である《太陽》に行き着くしかない。究極の絶対(太陽)は存在の要であり、答えは地平を静かに掠めている。(太陽は永遠ではないかもしれないが、人類の生存はその範囲を出ない)
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
「わしだよ。そこでさつきの話のつゞきだがね、おまへは魚屋の前からきたとすると、いま鱸が一匹いくらするか、またほしたふかのひれが、十両に何斤くるか知つてるだらうな。」
☆和(争いを納める)語(言葉)也。
全て路(物事の道筋)が逸(隠れている)。
必(そうなると決まっている)の等(平等)霊(死者の魂)を化(教え導く)金(尊い)質(内容)である。
しかし、それなら、なぜもっと早くに抵抗をしなかったのでしょうか。とくに、あの子にすれば、やはり姉さんの言ったとおりだ、あんなところには、一家の境遇を改善するためならなにか見つかるかもしれないが、野心や功名心をみたすようなものはなにも手に入らないということぐらいは、すぐにわかったはずですもの。
☆しかし、なぜ氏族は抵抗をもっと早くしなかったのか、わたしたち一族の状態を改善できたかもしれないのに。来世では功名心なんてものは無いということは、みんなが知っています。