『弁証法礼讃』
マグリットは「家については、家の正面に開かれた窓を通して、家を含んでいる部屋を見せました。それが《弁証法礼讃》ですと述べている(図録の解説より)
窓が室内側に開いている。(通常は外側ではないか)
窓の中(室内)に家(建屋)が見えるが、それはあり得ない。
視覚というより空間の否定(矛盾)を含んでいる。礼讃というからには、これを肯定しているということなのか。
家を《わたし/自己》と捉えるならば、《わたしの中のわたし》は矛盾しない。対立は消え、相互の浸透が認められるからである。
非現実的な構想は、単に空想(イメージ)に過ぎないが、現実的な解釈との折り合いをつけるためには、このズレを修正しなくてはならない。受け入れがたい現象を感覚的な確信(現象)で受容していく。
否定すべき現象を肯定的に捉え、その間に潜む矛盾に《真理》を見出すことができればという希望的『弁証法礼讃』ではないか。(あるいは確信か…)
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
山男はもう支那人が、あんまり気の毒になってしまって、おれのからだなどは、支那人が六十銭まうけて宿屋に行つて、鰯の頭や菜つ葉汁をたべるかはりにくれてやらうとおもひながら答へました。
☆太陽の談(話)で、詞(言葉)を納める図りごとの記を読み、詞(言葉)を納める図りごとを録(記す)。
自由に宣べ宿(前世から)を、憶(思いめぐらす)講(話)である。
鰯さえも等しく済(救う)ように要(求める)重(大切な)等(平等)である。
あの子は、わたしがいなければ、お城へ行くこともまずなかったでしょうが、いったんお城へ行くようになってからは、わたしから独立してしまいました。わたしは、あの子から信頼されているただひとりの人間ですが、あの子は、そのわたしにさえ、自分の胸にあることのほんの一部しか話してくれていないにちがいありません。
☆わたしなしで彼がお城(本当の死界)へ行くことは殆どなかったでしょうが、来世へ行ってからわたしから独立してしまいました。わたしは彼に信頼されている唯一の存在ですが、彼の抱いている先祖の氏族の部分しか話してくれません。