続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『飯島晴子』(私的解釈)葡萄園。

2021-05-27 07:20:34 | 飯島晴子

   葡萄園手足を熱く出で来る

 葡萄園はブ・トウ・エンと読んで、蕪、套、掩。
 手足を熱くはシュ・ソク・ネツと読んで、主、速、熱。
 出で来るはシュツ・ライと読んで、出、来。
☆蕪(ごたごたと乱れる)のを套(蔽い)掩(隠す)。
 主(主人)は速(す早く)熱(夢中)で出て(外に)来る。

 葡萄園はブ・ドウ・エンと読んで、舞、童、円。
 手足を熱くはシュ・ソク・ネツと読んで、手、足、熱。
 出で来るはスイ・レイと読んで、推、礼。
☆舞(踊る)童(こども)は円になり、手足を熱(ひたむき)に推(前へ押し出し)礼(お辞儀)をする。

 葡萄園はブ・トウ・エンと読んで、武、頭、演。
 手足を熱くはシュ・ソク・ネツと読んで、取、即、熱。
 出で来るはスイ・ライと読んで、遂、磊。
☆武(強い)頭(トップ)は演(おしひろめて)取(手に入れる)。
 即ち、熱(ひたむき)に遂(やりとげ)磊(小さなことにはこだわらない)。

 葡萄園はホ・ドウ・エンと読んで、補、導、演。
 手足を熱くはシュ・ソク・ネツと読んで、守、則、熱。
 出で来るはスイ・ライと読んで、粋、頼。
☆補導を演(行う)守(役人)は、則(規則)に熱(ひたむき)で、粋(物分かりが良くさばけており)頼りになる。


鈴木しづ子(私的解釈)煙草の灰。

2021-05-27 07:02:22 | 鈴木しづ子

   煙草の灰ふんわり落とす蟻の上

 蟻に個性はあるだろうか、あるかもしれないが誰に確認されることもなく忙しく収穫物を運ぶだけである。もちろん蟻と呼ばれるだけで名前などない。集団(仲間)としての連帯感、女王蟻に従うべく動き回る名もなき蟻、同情されることもなく使命のままに生きている。

 蟻は猛スピードで動いているけれど、人間から見れば遅々たる動きでしかない。人は巨人である、蟻なんぞ一ひねりの哀れな存在にすぎない。懸命に使命を果たすべく働く蟻の上に、人間様の煙草の灰をふんわりかけてやる。
 蟻は死ぬだろうか、すぐさま逃げ出して人間を嘲笑うだろうか。

 わたしは強者として、傲慢にも蟻一匹の命を預かる支配者と化す。この愉楽、この悲しさ、哀れ。
 灰を落とされた蟻は《わたし》である。


若林奮『1-5-10』

2021-05-27 06:32:36 | 美術ノート

   1-5-10 振動尺(手元)(部分)

 各種のパターン・・・丸だったり波、あるいは直線、楕円。
 振動尺、振動の単位、微塵にまで戻し、形に還元して想起する作業はとりとめもなく自由で開放的で拡散、あるいは凝縮の態である。

 しかし、総ては習い覚えた形の分解、羅列であって、自然界と一致することはないと思われる。自身の内なる形、印象である。
 胸の内なる鼓動は総て世界(環境)と共にあり、形・色はそこから抜け出ることはできない。記録は瞬時同時性を有して真実であり、嘘の入り込む余地はない。嘘ではないが、学習された観念的な、視覚から得た情報の再現に他ならない。

 表現は精神の模倣である。対象が不可視なものであっても二次元に還元すれば、学習されたデータの再現であり、それ以外は無いということを覚悟し、情報の手掛かりは人智の発展(歴史)に基ずく条件を決して外せない。むしろこの事が、振動尺の基軸であるという発見かもしれない。


 写真は若林奮『飛葉と振動』展より 神奈川県立近代美術館


『城』3660。

2021-05-27 06:22:32 | カフカ覚書

かりにわたしがほんとうのことを言わなかったとしてもーいったい、あなたのまえでその釈明をしなくてはならないでしょうか。どんな点でわたしがほんとうのことを言っていないとおっしゃるの」
「あなたは、じぶんではそうおっしゃっていますが、たんにお内儀さんであるだけではない」
「まあ、なんということでしょう!あなたの頭のなかは、いろんな発見でいっぱいなのね!


☆わたしが言わなかったとして、わたしはあなたに弁明しなくてはならないのでしょうか。何において、本当のことを言っていないと言うのですか」
「あなたは女主人であるだけではない、いかにも偽っている」
「ごらんなさい、傷痕を!十分な発見があるでしょう」