続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

若林奮《4個の鉄の囲まれた優雅な樹々》

2015-12-27 06:59:44 | 美術ノート

 《4個の鉄の囲まれた優雅な樹々》
 
 優雅? 優雅だろうか・・・こんなにぎっちり間隔もなく植樹された樹々、ゆとりもないし、気品も感じられない。
 むしろ横暴である。日照の問題を度外視した《4個の鉄に囲まれた樹々》は時間、かなり早い時間の経過で盛衰が明確に現れてくるに違いない。
 勝ち残る樹、衰退しやがて朽ちるしかない樹、この密集は静かなる戦いの場である。醜悪でさえある光景を創り出した意図は何だろう、少なくとも[庭園の美]は感じられない。

 4個の鉄の意味は、一つの所有された空間ということだと思う。しかし・・・。
 生育し変化を見せる樹々に対し、鉄はそこに在るのみであり、酸化し時間の経過とともに朽ちていくだけである。形が崩れていく、崩壊感覚の予兆は確かに共通する要因かもしれない。

 この光景はある種の告発であって、人間の横暴が、やがてはどのような結果を見せるかの年月を要する実験である。
 端的に言えば、人間は自然を意のままにすることは出来ないという主張を含んだ作品提示である。
 遅からず知るはずの荒んだ光景に、解答は自ずと見出されるに違いない。強い樹が勝つ(残る)というのも自然の理ではある。(「神宮の森」の計算とは真逆の計算が隠されている)

 若林奮の逆説的発想の結果は作家の与り知れない未来にある。しかし、かなり早くその結果を見ることになることは作家自身が一番よく知ることで、その胸の内の寂しさを、今は推しはかる術もない。

(写真は神奈川県立近代美術館/葉山『若林奮 飛葉と振動』展・図録より)


『銀河鉄道の夜』181。

2015-12-27 06:34:25 | 宮沢賢治

「くるみが沢山あったらう。それはああ、ざっと百二十万年ぐらゐ前のくるみだよ。ごく新しい方さ。


☆択(良し悪しを見てよりだし)算(見当をつける)。飛躍(踏むべき順序を飛び越えてしまうこと)した辞(ことば)を、自由に番(かわるがわる行う)念(考え)を申(のべる)法(やり方)である。


『城』2186。

2015-12-27 06:22:48 | カフカ覚書

ところで、この事務室は、その横幅いっぱいに、一方の壁から他方の壁までとどくほどの脚の高い机によってふたつの部分に仕切られています。ふたりの人間がからだをゆずりあいながらかろうじてすれちがえるほどの狭いほうの部分、これがお役人のいる場所です。もう一方の広いほうは、用件のある人たちや見物人や従僕や使者のいる場所です。


☆ところで、このテーマは先祖の唯一の長きにわたる(昔からの)もの(懸案)です。傾斜して立ちはだかる国が二つに仕切られ、誹謗し、二人の人間が先祖の違いでギリギリ避けているのです。対抗する空間(場所)は先祖を拡大する政党の場所で、証人や晩餐や小舟の空間です。


若林奮『飛葉と振動』

2015-12-26 07:07:26 | 美術ノート

 『飛葉と振動』
 《林立する不特定の棒状のもの》に対峙する《身体を被われた足先と頭部だけの男(自身)》が台座(エリア)の中に在るだけである。

 飛葉というからにはこの棒状のものは樹木であるらしい。飛葉はすでに樹木を離れ、地上に散逸、あるいは大地に吸収・同化されているのだろうか。
 飛葉という詩情あふれる言葉は哀しい。生命を断ち切られた死を免れない時間帯の産物である。死の瞬間を長く引き伸ばしたものと言ってもいいかもしれない。明らかに不可逆の時空に存在するものである。

 自分は視覚・聴覚でそれを認識している。救済することなど適うべくもなく、ただ凝視するのみである。
 自然の摂理としての時空に共存している自分は、裸眼では見えない分子飛び交う大気の中にいる。
 飛葉が教える自然の時空の循環、その一刹那の現場に立ち会う自分は確かに《振動》の波動・粒子を感じている。

 全ての存在は、自分と対立する存在物との空気の形に決定づけられている。見えないものを刻めないが、存在を削り極めてその間隔を図る。そこには明らかに空気の層やそれを支える地下の引力が働いている。

 稀有な考え方かもしれない、しかし存在の根底は、見えないものの力(振動する空気の層)による因果関係を抜きにしては認識できないものである。

 それを確かに教え伝えてくれているのは、例えば《飛葉》ではないかと考える。母体(生命体)から離れた飛葉は、風力による浮遊はあるかもしれないが、確実に重力により地上に落下する。幾憶の歳月に繰り返されてきた循環に抗うべき術はない。

 それを凝視する自分も、その例に漏れるものではなく、時間のサイクルに長短があるだけである。

 《飛葉》という切なくも愛しい「生から死」への時間を垣間見せる対象物との、心理的にも物理的にも揺れる時空への哀惜が《振動》である。


(写真は神奈川県立近代美術館/葉山『若林奮 飛葉と振動』展・図録より)


『城』2185。

2015-12-26 06:49:22 | カフカ覚書

ふつう、バルナバスは、ある大きな事務室に連れて行かれるのですが、そこは、クラムの部屋ではありません。だいたい、個々のお役人の部屋なんてものはないんです。


☆ふつう、バルナバス(生死の転換点)は、大きな秘書局のテーマに導かれていくのですが、クラム(氏族)がテーマではありません。要するに先祖の個々の秘書局のテーマなんてものはないんです。


電話。

2015-12-26 06:18:54 | 日常

 月江姉から一年に一度かかってくる電話。
 長い…受話器を持った手がしびれてくるほどに長い電話。ほとんどが神さま(基督教)の話と、自分の活動についてである。
 そして毎年聞いているうちに分かって来るのは、内容がほとんど同じだということで、聞いているこちらは少々疲れて来るけれど、姉の熱意は留まることなく延々続けられる。一時間を優に超える時間をひたすら聞き、時々「聞いてる?」というので「はい」と相槌を打つ。そういう会話である。

 昨夜は、申し訳ないけれど、受話器をすぐに弟である夫に渡してしまった。
「ふん、ふん、そうなの」「大変だねぇ」などと応えているうち、「四つのクリスマスパーティーを廻って疲れているでしょうからこの辺りで」などと口を挟んでいるけれど、一向に受話器を置く気配がない。

 ずいぶん長い年月わたしが経験してきたこと。それを思うと可笑しくて忍び笑いが止まらない。

 姉さんは戦後、叔母さんと言う人が経営していたダンスホールで長姉と一緒に働き、ダンスも歌唱も巧みでアイドル的存在だった人。アメリカ人に嫁ぎ、聖書から英語を覚えたという努力家でもある。
 華やかで楽しく嘘がなく、いつも元気な次姉。

「ほお、83才になったの、自分は71才だよ」なんて言っている。(お姉さんは83才になったのかぁ)朝は散歩で空き缶ゴミ拾い、刑務所の慰問どころか、そこで生まれた子供まで引き取って育てた人。
 《熱意と誠意の人》に心から敬意を抱いている。
 一男一女を生み、今は孫、ひ孫に囲まれた暮らし…向こうの人になってしまったけど、やっぱりこちらへの想いも・・・、それをむげに避けてはいけない。でも、たまには弟と話してください。

 長電話…まだ残る四人の姉弟妹にかける予定らしい。
 83才のお姉さんのエネルギーに乾杯(完敗)。


若林奮『森の中の椅子と机(緑の森の一角獣座)』

2015-12-25 06:53:13 | 美術ノート

 手のひらほどの小さな蓋付きの缶に収められた作品世界。

 縮図の中の世界である。換言すると、自分の所有するエリアは世界の中心であるともいえる。《その中の椅子と机》は、思考を重ねる哲学者の《場》という気がする。
 緑の木立に閉塞的に造られた安息、遮蔽され、存在を気づかれることなく自由に謳歌できる所有の空間。

 夢想である、夢想にすぎないかもしれない。
 しかし、存在というものは本来そんな風に密やかなものではないか、と考えてみる。存在しているが気づかれることなく存在している。
 ちなみに一角獣座という星座は、精度の高い望遠鏡で凝視すれば、宝庫のような光輝溢れるエリアであるけれど、裸眼では認識が不可能なほどの寂しい星座である。
 
 確実に存在するが、眼に見え難い秘密めいたエリアへの憧憬にも似た固執。若林奮の時空の測り方は、ここに起因する。
 自分の立ち位置から消失点への時空。直線的に見る天空、見えないが確実に存在する地表の下深く、目の前に広がる大気圏、背後の時空・・・彫刻家として前代未聞の計測は壮大であるがゆえに、むしろ極小の缶の中に凝縮されて夢想の一点と化す。

 無限に酷似した一点ではないか・・・一点の中に振動して止まない光や諸々の粒子、元素・原子に至るまでの静謐な流動を感じる。気体や葉(生命体)や水の変幻の中の微細な 運動である。
 《後の》と付記することがある。それは《予め学習された情報の後の》という前提なのだと思う。太古から現在に至るまでの地球の風(大気・水・地層)を時間の集積の中に感じているということである。

 若林奮の作品はある意味《実験》であり、永続的な時空をも想定したものであれば、常に更新されていく世界でもある。

 小さな缶の中に託した若林奮の世界、「更なる展開を見たかった!」と思う。


(写真は神奈川県立近代美術館/葉山『若林奮 飛葉と振動』展・図録より)


『銀河鉄道の夜』179。

2015-12-25 06:33:13 | 宮沢賢治

そして気をつけて見ると、そこらには、蹄の二つある足跡のついた岩が、四角に十ばかり、きれいに切り取られて番号がつけられてありました。


☆鬼(死者)が現れる態(ありさま)を辞(言葉)で測り、積(つみ重ねること)を含んでいる。
  詞(ことば)で較(くらべ)、自由に接(つなぎ)、趣(考え)の判(可否を定める)を合わせる。


『城』2184。

2015-12-25 06:12:31 | カフカ覚書

そんなことよりもわたしがもっと重要だとおもいますのは、クラムがどのようにしてバルナバスを迎えるかということです。バルナバスはそのこともよく説明してくれました。スケッチまで描いてくれました。


☆その上さらに重要だと思うのは、クラム(氏族)がどのようにしてバルナバス(生死の転換点)を間違えてしまったのかということです。バルナバス(生死の転換点)はしばしば描写し、それどころか印までつけたのです。