高度成長、バブル…そして今、不況は低所得者層を揺さぶっている。
「もう、人に使われるのは嫌だからな」と電車のホームでつぶやいていた男、見ればまだ五十前後の中年。
「お袋にこれ以上迷惑かけられないしな、『出て行け』と言われればいつでも出ていくさ。生活保護がダメならホームレスにでも何にでもなるさ・・・」
ホームのベンチの男女、どうも兄妹の会話らしい。兄も兄なら、妹も、どこかうらびれて兄を庇護する言葉も掛けられないでいる。寂しく寒風の吹き抜ける年の暮れである。
「マンション、売るんですか?650万はあんまり安いんじゃないですか」と聞くと、
「仕方ないんですよ・・・」と苦笑した近隣の中年男、どこへ行ってしまっただろう。
「今、生活保護の申請をしていますから」と、なにか先行き明るいような表情をしていた男もいた。その後、幾つか働き口を紹介してもらったようだけど、長く続かず、事故の後遺症についての診断を医師に迫っていた。その人も近隣から消えて久しい。
バス停のベンチで隣り合わせた高齢の女性、
「今夕は、息子が来るんですよ」と言うので「よかったですね」と応えると、
「いいえ、わたしの年金を取りに来るんですよ。一緒に暮らそうなんて言っていますが、怖くて同意できません」「・・・。」
少し周辺を見渡しただけでもこの状況である。かく言うわたしも下層生活。倹しい暮らしを甘受している身、他人の事は言えないけれど、先日も友人からの電話で、
「親にもしものことがあれば、負の遺産の方が多くて、この家も明け渡さなければならない」と、告げられ驚愕。
《なるようになる》と楽観視している無職のわたしの展望(?)
迷惑をかけないように身体だけは気を付けて暮らしたい。
「若林先生は犬や狼を題材にしていますが、猫も好きで飼っていました。捨て猫だったようですが、猫の名前のヒョウも、豹ではなく飛葉(ヒヨウ)からヒョウというようにつけたと聞いています。」
日常のたわいもなく漏らした一言などを交えた若林奮先生のお話。山口氏は若林先生の教え子であった由。その後の活動から親しくなり、没年を遡る三年間ほどの年賀状のやり取りのコピーを公開。
「手を振る(ハンカチを振る)画像(版画)です。」
お別れを予感していたのでしょうか、という旨を語られたけれど、手を振る行為は《別離》と同時に《迎合》をも意味する。二つの相反する意味を所有する画、(なるほどな)と思ったことでした。
「先生の作品は見えないところ、例えば地下であったり、箱の中であったりするエリアにとてつもなくエネルギーを注ぎ込むのです。それは時間や空間の凝縮だと思いますが、僕(山口氏)だったら、ガラスにして見えるようにしますけどね・・・」
確かに…その通り、見えることに意味がある。しかし、敢えて決して見ることは適わない暗部に時空を圧し込めるという拘りは、若林氏の哲学であってどうしても外せない行為だったのに違いない。
見えることと、見えないこと、つまりは《見ることの問題》は永遠性を持つ課題である。
作品を創る手をどこで止めるかは難しい。感性の問題であるけれど、完成度を見極める眼はあくまで主観である。
「彼は、『へとへとになるまでやるんだ』と言っていました」と某氏が発言。
「そうですね・・・」
それぞれ先生方も若いアーテストたちも静かに肯き、苦笑。
美術界を遠くから覗いているわたし、『若林奮 飛葉と振動』展の最終日、別れを惜しんで出かけて見たら、酒井前館長さん、李学芸員のお姿もあり、かなりの聴衆…みんな勉強家なのだと、その熱気に恐縮。
山口啓介先生、水沢館長さん、いろいろなお話をありがとうございました。
見ると、その白い柔らかな岩の中から、大きな大きな青じろい獣の骨が、横に倒れて潰れたといふ風になって、半分以上掘り出されてゐました。
☆兼ねていることを吐く(言う)。
重ねて含む衷(心の中)が題(テーマ)である。
題(テーマ)の章(文章)は等(平等)の講(はなし)である。
往(人が死ぬこと)を套(おおう)界(領域)は普く反(元へ戻る)文(文章)の意(考え)であり、章(文章)は屈(まげて)推しはかること。
でも、それは、自分が見たものを報告していると言うよりは、頭のなかで勝手に考えだしているようにおもえるのです。おまけに、つまらないことばかりでーたとえば、うなずくときの頭の独特な動かしかたとか、チョッキのボタンをいつもはずしているとかいうようなことばかりなので、とても本気に聞いていることができないほどです。
☆でも、それは見えたものを報告するというよりも、考え出したもののように思えます。その上、微々たることばかりで・・・。たとえば、先祖は別々に標題から目を伏せ、西(来世)の呼び鈴を押すボタンをはずしているので、まじめに受け取ることが不可能なのです。
なんとなく慌ただしいけれど、、一つづつ片付けていく。やり残していることはたくさんあるけれど、(もういいか)という諦念が先に立つ。
何もかもやることは雑だけれど、それでもやった気になっている能天気に救われている。
去年の今頃は足に支障をきたし歩けなかった。右足を出し次は左足というその一歩が地に着けないほどの痛みがあって本当に情けない思いをした。
《年が明ければ、きっと治る!》という楽観に支えられていたけれど、元のレベルに戻るまで結局半年を要した。
元のレベル…不完全な、どこかしら痛みを伴ったぎこちない歩行、それでも《前に進めれば十分だわ》とたかをくくっている。
今年一年の感慨・・・もっと頑張ればよかったなぁという後悔。でも、(わたしの能力ではこんなとこだよ)と自嘲。
《頑張りすぎない》をモットーにしている。(もう、時間はないのにね)
慌てても、ゆっくりしてても時間はきちんと過ぎて行くのだから、過去を振り向かず明日へつながる今日を生きていく。
『ガラスの鍵』…極めて神秘的な命名である。
草木も生えない高山、聳え立つ山の峰に巨岩石が乗っている。岩が火口から飛んできて落下する、ということはある。したがって岩石が険しい山の頂上付近に在るなどということは自然現象としては有り得ない。
山頂の嶺に岩石が落下するとしたら、それは天から降って来たとしか思えない。(隕石が地球に衝突したとして非常な重さを持つそれは下へと転落し、嶺に着地することなど想定外)
いわば超常現象である。
現実を超越した光景としての巨岩石の有り様は神秘・・・神の領域としか思えない。
ガラスの鍵。ガラスは良く見えると同時にガラスそのものは透明であるため見え難い、つまり神秘のベールである。
この世の中は、確かに神秘的なベールに覆われている。不可思議、想定外、計り知れない妙、運命の悪戯、幸不幸・・・目に見えない神秘に翻弄されている現実。
ガラス(神秘のベール)の向こうには崇高なるものの存在があるのではないか、そうに違いない。
見えないけれど、確かに在るもの。もちろん物理的現象など凌駕する世界である。
目に見える世界を一笑に付すような超絶無比な存在は近くにあるかもしれず、また仰ぎ見ることさえ叶わない遠方に在るのかもしれない。
マグリットは、一つの試みとして、この心象を描いたのではないか。
『ガラスの鍵』は、神の領域を開ける秘密の鍵である。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
「そこのその突起を壊さないやうに。スコープを使ひたまへ、スコープを。おっと、も少し遠くから掘って。いけない、いけない。なぜそんな乱暴をするんだ。」
☆訥(口が重い)鬼(死者)の界(世界)。
志(こころざす)照(あまねく光があたる=平等)を演(のべる)。掘りさげ覧(広く見渡し)望(遠くをのぞむ)。
〈それじゃ、バルナバス〉と、わたしは言ってやります。〈あんたはなぜ悩んだりしているの〉とね。すると、彼は、眼に見えて困惑しながら、あの白のお役人の特徴をいろいろと列挙しはじめます。
☆「それじゃ、バルナバス(生死の転換点)」と、わたしは言います。「なぜ、疑っているの、なぜ悩んでいるの」と。すると、彼は眼に見えて困惑し、終末(死)に対する反抗の特別なことを並べはじめました。
どんなことがあっても、歩き続ける。これが生活の基本である。
しかしながら、長年の不摂生、閉じこもりにより近年は歩行困難をきたしている。
「毎日三十分、歩いてください。そうすれば必ず筋力が付きます」とは、三浦半島一周を徒歩で敢行した講座の長である古山さんのコメント。
それが守れない、意志薄弱なわたし・・・。他力本願、自分を失くして他人に付いていくだけ。
それでも、外へ出るだけでも良しとしなければと「歩こう会」に入会し、ウオーキング協会のお世話になり、そして今、果敢にも(?)「花を見る会」に参加希望を申し出た。予定表を見るとほとんど毎回10キロの工程・・・。
「花を見る会に入らない?」と、友人のお誘い。
(そうね、)お散歩くらいの軽い気持ちだったのに…大丈夫?(自分に問いかけて危惧している)
リーダーは十年くらい前からの顔見知り、何とか勇気を奮い立たせて自分を叱咤激励している。
《年をとったら外へ出なくちゃね》
ご同輩たちとの合言葉である。
頑張れるかな? 頑張らなくちゃ!
『光の帝国』
光とは周囲を明るく照らしだす発光体のことである。
昼は確かに太陽光によって世界は明るく人の目に見えるような状態をつくり出す。しかし、夜の光というものは月光(あるいは星)をおいて他にはない。
光の帝国、帝国とは皇帝の支配する国家のことであるが、一人の人物(集団)の支配による独裁国家という帝国もある。
マグリットは「私が常に、夜と昼とに対して最大限の関心を抱いているからです。しかしながら、どちらが好きだと感じたことは一度もありません」と、コメントしている。
夜を照らすもの・・・夜、見えない人の心を照らすもの、指針となる統治下の生活。渾沌・混乱を治める支配なしに安心な暮らしはない。
しかしながら、昼の光(太陽/自然)の恩恵に比べれば、立派な建造物に灯る明り、広い領域にまで届かないポツンと点いた街燈など、人為的な威光はこれほどのものでしかないのではないか。
どちらにも恩恵はあるが、雨風嵐の風雪や辛苦を伴う指令にも耐えなければならない。
昼の青空に浮かぶ雲(不穏の予兆)、帝国に潜む暗澹。建屋とも見える巨大な空気口(吹き出し)からは火を吹くような驚愕の指令が出るかもしれない。
昼が来れば夜になり、夜が来れば昼を迎えるという自然の摂理の下にわたしたちは暮している。逆らう術などあろうはずもなく、疑うことも希薄である。
しかし、マグリットは考える。この大いなる力にも差異があると。
しかし、否定することも叶わず、ただこの条件下に身を委ねている。この世界の構図を詩に例えるならば、こんな風になるのではないか、気づかない驚異というものもある。・・・マグリットの解答である。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)