叔母の告別式で久しぶりに従兄弟(従姉妹)が顔をそろえた。
「最後の叔母だから、もう会うこともないかもしれないね」と、誰かが言う。
それにしても、みんな十分に…年を取った。幼い頃の思い出が過り年を重ねたことを忘れるけれど、
「いくつになった?」
「もう84才だよ」「・・・」
「わたしは来年になれば70・・・」「えっ、そうなの」侃々諤々。
従兄弟全員が両親を送った現今、「これからは自分たちの番だな」と、誰言うということもなく漏れ聞こえる溜息。
八王子から嫁いできたという叔母さんの本家の息子さん、
「八王子は生糸農家が多くて家はその仲買いをしていたそうです。当時の羽振りは人力車の送迎でもしのばれ、自転車なども先んじて使用していたようです。」と叔母にとっての祖父の時代を話してくれた。
みんなそれぞれの物語を生きている。叔母さんは歌が好きだったそうな・・・、いろいろあったかもしれないけど、百歳万歳!そして「さようなら」
『3つの停止原基』
長さ1メートルの糸が限定された3枚のカンヴァスを、3枚のガラス・パネルに謬で貼りつけたもの。それぞれのパネルには糸の曲線に従った木製の定規がついている。すべてが収められた木製の寸法は129.2×28.2×22.7㎝(解説より)
ちなみに、糸の曲線は全くの偶然に拠るものらしい。
停止原基なんて言う言葉があるだろうか…原基とはいわば《未来予想図》
未分化(見決定)の状態の未来を決定づける根本、それを停止と否定している。
しかもこの場合、原基は全く偶然性の表明であリ、しかも自身が決定した偶然である。
3つ…一次元・二次元・三次元(4つなら4次元?)
3つ…過去・現在・未来(4つなら死後?)
過去と現在はすでに決定しているから原基には触れないが、存在そのものの運命論の全否定だと思う。
もちろん物理的解釈ではなく精神論の範疇である。
運命の予想という他から働きかける力の阻止である。換言すれば《自分自身の解放》を静かに言明し得た作品だと思う。
(写真は『マルセルデュシャン』㈱美術出版社より)
まったくインデアンは半分は踊ってゐるやうでした。第一かけるにしても足のふみやうがもっと経済もとれ本気にもなれさうでした。
☆判(区別する)文の要には代(変わるもの)が逸(隠されている)。即ち、継(つなぐ)際には、翻(形を変える)記がある。
しかし、アマーリアはソルティーニを愛さなかったじゃないか、とあなたは反論なさるかもしれません。まあ、愛していなかったでしょう。でも、あるいは愛していたかもしれません。だれがそんなことを断言できるでしょうか。あの子自身すら、断言できないでしょう。
☆しかし、アマーリアはソルティーニを愛さなかったではと反論するかもしれません。愛してなかったでしょう、でもひょっとしたら愛していたかもしれません、それを決定できるでしょうか。先祖の汚点は彼ら自身のことなんです。
叔母の告別式・・・。
「百歳も過ぎているかと思うと、悲しいという感じがしないわ」と、娘のヒロちゃん。(きっと気を張っているせいでしょう)と、内心つぶやくわたし。
お葬式は一大イベントである、大きなエネルギーがそこに働く。
向こうへ旅立つ叔母さん、車椅子ではあったけど先月までキッチンに来て食事を取っていたという。
「お祖母さんの弟が『姉さんはお勉強ができなかった』って笑ってたわ。でも死ぬ間際に百歳で、総理大臣に表象されるなんてね」とヒロちゃんが笑った。
そう、明るく送りましょう。
肩凝り、眼精疲労・・・ひどい倦怠感。
百一歳まで頑張った叔母さんに笑われてしまうね、きっと。
呼吸を整えて、今日一日を叔母さんのために祈りましょう。
『回転ガラス板』
色を塗った5枚のガラス板が一本の軸の上で同時に回転させる(1メートルの距離から見る)と、ひとつづきの同心円が生まれる。(解説より)
この状況を想像で考えるしかないのだけれど、視点はどうしても中心に引き寄せられるしかないのではないか。そして回転しているが全くの同心円であるために静止しているかの印象を受けはしまいか。
5枚のガラス板を所有する空間はあたかも平面状に感じる妙。距離を隔てたものが、ガラスの透明・同心円の回転という謀によって錯覚(錯誤)が生じる。
構造(図りごと)が現存を凌駕するという現象である。
見えているものは正しいと確信するが、必ずしもそうでないことの証明。
(写真は『マルセルデュシャン』㈱美術出版社より)
「いゝえ、汽車を追ってるんぢゃないんですよ。猟をするか踊るかしてるんですよ。」青年はいまどこに居るか忘れたといふ風にポケットに手を入れて立ちながら云ひました。
☆鬼(死者)の赦(罪や過ちを許す)応(こたえ)は、霊(死者の魂)の要の照(あまねく光が当たる=平等)の念(思い)に拠る謀(はかりごと)だり、普(あまねく)趣(考え)は新しい律で運(めぐらせている)。
お役人に惚れたがために身をまかせたと言われても、ほめ言葉でもなんでもありません。その娘はお役人を愛した、そして身をまかせた。それだけのことだったのです。ほめることなんか、まるでありません。
☆彼女は愛するがゆえに成し遂げ、それゆえに捧げた。彼女は愛し、彼に捧げた。それだけのことです、ほめることなどまるでありません。
『パリの空気50㏄』
ガラスのアンプル(注射器)が吊り下げられている。
空気という混合気体を㏄で測る?
空気は見えない、認識不能なものを指し、なおかつその量まで示し『パリの空気50㏄』とする提示。
密度・比重などを厳密に測ることと異なり、視覚だけで地球上の他の空気と比較する術はない。
判別不可能なものを提示して「これがパリの空気50㏄である」と表現する。
鑑賞者は(そうでないかもしれないが、そうなのかもしれない)と懐疑的に、否、納得してこのアンプルを見つめる。(しかし、ここに意味があるだろうか)という疑問は残る。
空気(気体)であることは確信できる、50㏄というのも50㏄のアンプルであれば、その水量に等しい体積がある。パリの、というのもパリであれば疑いようがない。
アンプルの中の空気という提示は、使途不明であり、意味の剥奪である。たしかに現存しているが、意味(目的)の不在があるのみであり、ガラスで隔絶されたこの空気には情感(気温・風・香り等)がない。見えているが、見えていないのである。
鑑賞者は作品を前に、意味を否定し、無意味を知る。意味の不在の象徴に翻弄されると換言した方がいいかもしれない。
(写真は『マルセルデュシャン』㈱美術出版社より)