一郎はだんだんそばへ行って、びつくりして立ちどまつてしまひました。その男は、片眼で、見えない方の眼は、白くびくびくうごき、上着のやうな半纏のやうなへんなものを着て、だいいち足が、ひどくまがつて山羊のやう、ことにそのあしさきときたら、ごはんをもるへらのかたちだつたのです。
☆逸(隠れている)糧(物事を養い育て支えるのに必要なもの)の講(話)には律がある。
談(話)は変(移り変わり)幻が現れる。
法(神仏の教え)の幻であると吐く。
照(あまねく光が当たる=平等)を惹きつける範(手本)を添える記、即ち太陽が要である。
こういうことが、Kには解しかねたのである。彼はオルガに、鞭はもっていませえんか、とたずねた。オルガは、鞭はもっていなかったが、ちょうど手ごろな柳の枝があったので、それをもらっていくことにした。
☆彼は、苦しくありませんかと訊ねた。オルガに苦痛はなかったが、先祖の氏族を引受けることにした
『神々の怒り』
この画面の中に『神々の怒り』があるという。
車は運転手によって走り、馬は騎手により疾走する。この二つの態が、上下に重なるという有り得ない構図である。次の瞬間に予想される事故の悲劇。騎手は車を見ず、また運転手は馬を見ず、双方は前進することのみに集中している。
文明の力は馬力を軽々と超えていくに違いないが、走る車の上で馬を走らせたとしたら、馬は落下を余儀なくされる、即ち《死》であり、車の方も損傷を免れないかもしれない。
神をも恐れない暴挙への突進。神は禍を科したということだろうか。(現時点では留まるなら、それはない)
創造主を始め自然に宿るとされる神々は、信仰の対象としての尊崇、畏怖の念を抱かせるものであり、むしろ世界の在り様として隠れた存在である。
その神々の怒りとは、危険を顧みない傲慢や運転手に運転を任せる横柄への忠告だろうか。
救済のない事態に神々の存在はない。この一寸先の非常事態に神の奇跡は期待できず、期待されないことへの神々の怒りが隠れている。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
その草地のまん中に、せいの低いをかしな形の男が、膝を曲げて手に革鞭をもつて、だまつてこつちをみてゐたのです。
☆総ての字を註(意味を説きあかす)定(きまり)で、継(つないでいく)談(話)である。
質(内容)を極め、趣(ねらい)を書くという便(手段)である。
そして、フリーダは、平気で助手をおれのところへよこした。おまけに、ひとりだけときている。もうひとりは、たぶんフリーダのそばに残っているのだろう。
☆そこにフリーダ(自由)は怖れることなく先祖の助手(脳・知力)を送ってきた。先祖の残りは他のところに留まっているのだろう。
長年にわたる日常の怠慢により足腰が衰弱しているわたし。
月イチの「歩こう会」も、やっとの体。ところがラジオ体操仲間のNさんが「行く!」という。
彼女の元気に押されて(行くしかない…かな)という気持ち。
「歩こう会」のメンバーにも助けられているけど、つくづく友人の言葉に救われて細々元気をつないでいる。感謝、深謝。
『傑作あるいは地平線の神秘』
①三人の男は、同一(一人)の男の分解ともいえる。
②それぞれの頭上には三日月があるが、三日月の南中は見えない。
③地平線上に街の屋根の形が鮮明に見えることはあり得ない。街の屋根は少なくとも地平線よりはるか手前に見えるはずのものだからである。
④真昼間の光景でありながら、街の屋根などの光景は夕暮れのような不鮮明さである。
⑤月が三つ並んで現出している光景はない。
同時刻(同条件)の三つの時空が並列することは物理的にあり得ないが、精神的な自由(妄想/虚偽)としての肯定はあり得るかもしれない。
地球を三体並ばせ、それを切り張りした光景の巨大さを、一個人の中に収めるという暴挙である。
物理的空間には限りがあるが、精神的空間には途方もない企てを許容する無限があることの証明である。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
そこはうつくしい黄金いろの草地で、草は風にざわざわ鳴り、まはりは立派なオリーブいろのかやの木のもりでかこまれてありました。
☆往(人が死ぬと)魂は総て除(取り去られる)。
相(姿)は普く冥(死後の世界)の律により破(形を崩し)黙(声も出ない)。
にもかかわらず、申し出を断った。助手がさがしにきたので、びっくりしたのである。フリーダはおれの意向を知っているはずだし、助手どもも、さんざんこわい目に会わされた。それがまたどうしていっしょになったんだろう。
☆フリーダによれば、彼は不明瞭ではあるが自分の意志を持っているし、助手も彼を怖れているのになぜ再びそのように集まってきたんだろう。