たとえば威張り散らしている店長。それはそれでイヤなものだが、きっと皆からの反感も買っているに違いない。そして考えようによっては、僕らの代わりに皆の反感を一身に受けてくれているのだ、とも言える。
たとえば仕事しない部長に卑屈な課長。それも見ていて情けなくなるものだが、皆からの軽蔑も買っているに違いない。これまた僕らの代わりに、と。
「あいつなんかいなけりゃいいのに」とはよく思うことだが、仮にそういう人がいなくなった場合、反感や軽蔑が自分に向かってくるかもしれないのだ。
どこかで読んだ話。こういう、云わば邪魔な人間がいない人生ってのは、ディフェンダーもゴールキーパーもいないゲームでゴールを決めるようなもので、面白くもなんともない、と。
そう考えていくと、上記のような人たちがいるってこと自体、ありがたいと思わずにはいられない。
たとえば大きな災難/災害によって被害を受けた人がいたとする。これもまた僕らの身代わりになってくれたと考えることもできる。
これらはキリスト教の考え方の基本のようである。イエス・キリストが、自分たちの代わりにイバラの冠をかぶせられ、ムチで打たれ、十字架に磔けられたのだと。
僕だって、進学先にしろ就職先にしろ、2つ3つ道が違っていたら、阪神淡路や東日本の震災に遭っていたかもしれないし、何とかいう真理教の信者にでもなっていたかもしれないし、失業してホームレスになっていたかもしれない。
2つ3つ道が違って、逆にどこかの市長や大臣にでもなっていたとしたら、不手際や失言により今ごろ槍玉に上がっているのかもしれない。
現実に戻って。
周りを見渡したってそう。部下は僕の代わりに雑用こなしてくれているのだし、上司は僕の代わりにややこしい金勘定をやってくれている。
カミさんは僕じゃとてもできないような料理を作ってくれるし、子供は僕の子供の頃を思い出させてくれる。
道路工事人、コンビニ店員、スキャンダル渦中のアイドル、大統領、それからビンラディン。もちろん本人たちにはそういう意識はないだろうが、みんなみんな、身を以って僕らの代わりになってくれているのだと考えることもできるはず。
何ともありがたいことだ、と。
ところで、日本語の「有り難い」には、目に見えない〈万物〉に対する感謝の念というのも含まれているように思える。英語の“Thank you”では特定の人や相手が必要だし、“Thanks”では軽すぎるような気もする。“appreciate”を使っても、どうも「ありがとう」というニュアンスは出てこない。