以下は、12月12日のブログー「なぜphilosophiaの訳語を変えるのか?ー『哲学』から『恋知』へ」(クリック)へのaBeBeさんのコメント(ミクシィ内)とそれへの応答です。
12月20日
10:34
aBeBe (阿部憲一)
哲学と民知では、出発点が違うんですね。
哲学を平らげれば民知になる訳ではないということですね。
民知を高めると哲学とは別次元の愉悦になりそうです。
近年「哲学」という名のもとに行なってきた事は壊す対象として、出発点の一神教=イデオロギーがいつも関わっていたように思います。
民知は、出発点が自分ですから、あらかじめの答えがない、よって、イデオロギーの枠もない、「生きた知」でいられるのではないかと思います。
民知の会の始まる4月が楽しみです。
2005年12月21日
11:56
タケセン(武田康弘)
いい指摘ですね~。その通り!!ありがとう。
主観性から出発し、目指すのも主観性、ただし、深まり、大きくなり、強く、豊かに、透明になった主観性です。
「民知」を高めるとは、「生活世界」そのものを愉悦となすことです。
イデオロギーの枠も、予めの真理や決められた到達点もありません。一切の形式主義ー権威主義とは無縁となり、真に自分自身を中心に生きることの始まりです。「なぜ?どうして?何のため?」というエロースの探求が始まる、というわけです。
強い一神教のつくる騙(だま)しの安心や強い自分ではなく、冷厳な現実認識と自由で豊かな自己の想念が織り成すほんものの安定と充実の世界が開けます。
客観主義や権威的な硬さとは対極にある、柔らかくしなやかな人間味溢れる思索の開始!です。従来の知の枠組みそのものを変更する最高に面白く有益な知のはじまり~、はじまり~です。
武田康弘