思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

底なしの不幸を強要される日本を変えるためには?

2005-12-09 | 恋知(哲学)

自分の心の内側から呼びかける声に従えず、外なる価値に隷属し、強迫されて生きる日本人ほど不幸な人々はいません。

不幸が常態になっているために、不幸の自覚もないのです。「型」の強要という手法による日本的洗脳は、無自覚なまま人の心の奥底を縛ります。
自分がほんとうに望むことが何か?の自覚がなく、自動機械のように型通り生きるのです。

集団同調が当たり前になり、どこにも深い悦びの個人がいません。
既成秩序の「ドレイ人」とその反動形式としての「ワガママ人」では、人間として生き意味がありません。

目先の効果、利益、見栄えだけしか追求してこなかった日本は、底なしの「構造欠陥人間」で溢れています。内的悦びー意味充実の世界とは程遠い、儀礼とお世辞とタテマエのウソで固めた人生に幸福がくることはないでしょう。

外見だけを取り繕ったインチキ人生をやめるか?つづけるか?それは一人一人の決断です。
「靖国思想―天皇制、東大病―官僚制」という一元的な価値観(世俗の価値を神とする擬似一神教)の支配から脱することができるか否か?は、あなたのこころ次第です。

自分の得だけを考える「自己中心」と皆のためを言う「自己犠牲」という思想は、本質的には同じものです。ひとつメダルの裏表でしかありません。どちらも深い心の声を偽る不幸の意識です。どちらも他人を不快にし、どちらも自分の幸福をつくりません。協力、創造のエロースを消去して、即物的な死んだ世界を生むだけです。先がありません。

損得計算なしに、自然に深い心が望むことをし、してあげることは、自他のエロースを広げる基本です。基本がなければ何ごとも始まりません。自我主義は自他を共に不幸にするだけなのですが、形式主義で生きるわが日本人は、この簡明な原理を身体化できません。

底なしの不幸を変えるのは、人が生きる価値意識ですが、それを生み出すおおもとが「知」のありようなのです。
わたしは、恋知(哲学)を基盤とするの「民知」の実践に集中したいと思います。
そのために、来年4月「民知の会」を創設します。1987年以来の「哲学研究会」と1994年以来の「市政の会」は廃止します。その理由はまた明日書きます。

?民知宣言(9000字)7月
?民知・恋知とは?(1000字)8月
?民知ー恋知と公共哲学(11000字)10月

武田康弘

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