[ 民知、恋知についてはこの上のブログで項目をクリックしてください ]
果物のジャム、
メーカー製のものもいろいろ工夫されています。砂糖を使わず果物の甘味だけを生かしたもの等々、
でも、長い流通経路での事故を考えて、いろいろ対策が施されています。それが味を死んだもの=造花のようなカタチだけのものにしてしまいます。
自家製のジャムや農家の手作りのものを食べるとそのあまりの違いに愕然とします。
一つ一つの細胞が生きている!味がピッと立っています。
まったく別ものです。
これはなんでも同じ。
マスプロ教育、進学塾、こどもたちの顔も頭も死んでいます。メーカー製のジャムのように造花でしかありませんが、親たちは造花の方がよいと思っているようです。
構造欠陥、インチキがほんものの顔をする社会です。
まっとうなものが日陰者にされる逆転。
死んだものー管理され、鋳型にはめ込まれた世界が、生きたものを支配する逆立ち。
これを直していくのは私たち大人の責務のはずですが、反射的な言動と、外見や即物的な価値に縛られていては何もできません。
本質的に「受動」でしかないような言動=人生に幸福はありません。
手作り、自分で考え、自分でやってみること以上の価値はないのです。発想の転換が必要です。序列主義―権威主義の発生する元を断つことはそのための基本条件です。
民知という知とは、手作りの発想です。知をほんらいの知、人間のよき生のための知=生活世界の有用性に返すことを目的とする運動です。
外見の立派さ、形式的な善、本性を隠した誤魔化しの人生、表層的な知しか持たない人間がつくるエロースに乏しい上げ底社会をおおもとから変えていくのが民知です。
さまざまな日々の体験から意味をくみ出す能力を鍛えることが核心ですが、そのためには、人間や自然の観察=体験、文学・音楽・美術体験、衣食住全般についての思索が必要。知とは生活世界の中からしか生まれないのです。だからほんらい知はすべて民知なのですが、制度化され権威化された知(メーカー製のジャム)の方が偉いという「ああ、勘違い!」の価値判断がまかり通っているために、わざわざ「民知」という言い方が必要になる、というわけです。
昨日書いた「恋知」という生きた問答的思考は、そのための知の基盤です。現実=生活世界の中で恋知を応用し現実化すること、それが民知なのです。
来年、2006年4月に「民知の会」を立ち上げ」ます。ふるってご参加下さい!
武田康弘