思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

「公共哲学」への疑問ー「公共世界とは民知からひらかれるもの」へのコメント15

2006-10-23 | メール・往復書簡

以下は、10月19日のブログ=公共世界とは、「民知」からひらかれるものへのコメントです。

[ (哲学する普通の市民)荒井達夫 ] [2006/10/19 22:17]
基本理念は、本来明確で分かりやすいものでなければなりません。「公共哲学」は、「民のための哲学」、「公務員が身につけておくべき哲学」ですから、なおさらでしょう。だから、大御所の金さんに期待するというのは、変な話です。「シリーズ・公共哲学」(東大出版会)の編集・執筆者である2人の学者に来ていただき、それぞれ5時間に及ぶ議論をしても、基本理念への疑念は解消されず、むしろ深まり、また肝心の哲学部分が欠けていることが明らかになりました。公務員研修等で「公共哲学」が重要視されつつあることを考えると、これは「公共性」の問題として重大で、市民として無視できません。大学人の皆さんには、普通の市民が理解できる本物の「公共哲学」となるよう、本気で取り組んでいただきたいと思います。
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[ タケセン ] [2006/10/19 23:07] [ Myblog ]
金さんに期待するというのではなく、公私の対立を超える方法を共に考えることが必要です。行ったり来たり、時間をかけて、愉しみながら恋知するのが私は好きです。
広く公共の哲学を考えるのは、やはり「民知」という発想を基底に置く以外にはないと思いますが、その射程を長く伸ばす、深く深く掘っていくと素晴らしい世界が開けると感じているので、それをじっくり味わいたいと思っているのです。
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[ 山脇直司 ] [2006/10/19 23:22]
皆さんの盛り上がった雰囲気に直接参加出来ず残念です。ただ、最初は徹底的に「哲学とは何か」「哲学に何を期待するのか」を最初に討論して、その後で公共哲学の存在理由を議論すべきなのに、順番が逆になっている点が奇妙に思えます。私などは、逆に「実存主義の限界の自覚」から公共哲学に入ったので、その辺を皆さんは一体どのように考えているのか、本当に知りたいと思います。「実存を語ることでグローバルな公共問題に対処できる」と皆さんは本気でお思いですか?
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[ (哲学する普通の市民)荒井達夫 ] [2006/10/19 23:42]
山脇さん。
もう一度、白樺で討論をやりましょう。公・公共・私三元論と、哲学部分の有無が問題になっているのですから。また、私との討論で、山脇さんは、「公共哲学」でなく「公共学」の方が良いとおっしゃいましたよね。その点も、きっちり確認したいと思います。
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[ 山脇直司 ] [2006/10/20 00:20]
荒井さん、応答ありがとうございます。
本当に徹底的に議論したいと思います。ただ、私の方、ユネスコ哲学デーのためモロッコに出かけるなど、11月いっぱい時間が取れません。12月になると何とか時間が取れるかもしれません。その時は、公共哲学などは後回しにして、「市民にとって哲学とは何か」について心底から話し合えればと思っています。
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[ タケセン ] [2006/10/20 09:02] [ Myblog ]
荒井さん、山脇さん、活発なコメントありがとう。
違い、対立を尊重するからこそ生まれる自他一如の心。異化し異化されるのを愉しむ自在の心。それが白樺精神です。白樺自由討論、活発にやりましょう。
実存から出発しない思想は恋知(哲学)ではなく、ただの理論に過ぎません。これは原理です。しかし、外部へと向かう意識の志向性から切り離して、「私」を実体化・固定化してしまうのは、実存論ではなく悪しき実存主義です。この両者の違いをわきまえることが核心。
自己を徹底して活かしていくことが、魅力ある公共世界を生み出す条件です。「一般性」に陥る灰色の公(おおやけ)ではなく、納得をつくる普遍的な公共世界をひらく生を、【公共的実存】(武田の造語)と呼びます。
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[ (哲学する普通の市民)荒井達夫 ] [2006/10/20 21:34]
「自分にとって本当に良い人生とは何か」、「より良い社会とは何か」等について、可能な限り深く考えること。そのために、一人の生身の個人の立場で、「なぜ、どうして、何のために、何に依拠し、何をめがけるのか」と、常に問いながら生きるよう努力すること。これが「哲学する」ことであり、この思考実践の土台となる思想を持っているものが本物の「哲学」であると考えています。「活私開公」、「グローカル」、「和」等は、それらを提唱するだけでは、この思考実践の土台となる思想にはなり得ない。人の心に響くことのないキャッチフレーズに過ぎない。また、「公・公共・私三元論」は、現実妥当性のない単なる「理論」であって、「哲学」ではない。キャッチフレーズや理論だけの議論は、人々(市民)が生きていく上で有用ではない。現在の「公共哲学」は、これであると思います。
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[タケセン ] [2006/10/21 09:03] [ Myblog ]
荒井さん、
アカデミックな学は、「客観学」であろうとしますが、人間の生の意味と価値を問う恋知(哲学)の営みは、ほんらい「主観性の知」です。ここに、本質レベルでの矛盾が生じていて、大学哲学(講壇哲学)は、恋知(哲学)の真髄からはズレて、哲学・学になってしまうのです。この「客観学」の呪縛から解放されるには、根源的な発想の転換が必要で、それは人間の生き方の変革とセットです。
出来たばかり、発展途上の「公共哲学」が今後どのように動いていくか?は、それに関わる人の態度と転換のレベル次第でしょう。
客観学の形態でもそれなりに可能な「公共学」ではなく、哲学(主観性の知)にまで深めなければならない「公共哲学」の営みは、確かに、従来の発想を革命しない限り不可能だ、と私も思っています。
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[(哲学する普通の市民)荒井達夫 ] [2006/10/21 09:40]
東大出版会の「公共哲学(第3期)」では、「より鮮明に「政府の公」と「民の公共」と「私」の三領域が区別し、議論する。民を形成する個人の「生活世界」と「制度世界」を媒介する視点として「公共世界」をとらえる。グローカルに加えて,グローナカル(グローバル×ナショナル×ローカル)な三次元相関的思考発展もはかる。」が編集方針だそうです。「公共哲学」は混迷の度合いを深めていると言わざるを得ません。そもそも、どうしたら「民から開く公共」になるのか、まったく不明確なところに、さらに新視点や新造語の類を加えてきているからです。「民から開く公共」のためには、まず揺るぎない哲学的土台を置くべきで、一から出直す必要があると思います。
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[タケセン ] [2006/10/21 11:27]
荒井さん、公務員なので切実!?ですね。
「公共哲学」は、ますます恋知(哲学)から離れて「理論」になろうとしている、
というわけですね。
東大出版会から出ている限り、「客観学」にシフトする以外にはない(笑)のでしょかね~。どうなることやら。
また【マルクス主義】(哲学までも客観学化して権威化する)の二の舞を踏むのでしょうか。根本的な発想転換の必要など、大学内安全地帯の学者には到底不可能!?なのが現実かもしれません。
なんだか全然エロースがありませんね~(笑)。 「民知と共にあらんことを!」です。
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[(哲学する普通の市民)荒井達夫 ] [2006/10/21 14:11]
今のままでは、「公共哲学」は官僚に都合良く利用されるだけでしょう。どうしたら「民から開く公共」になるのか不明なまま、「公共哲学」と言っているのですから、どのような内容の施策でも、「公共哲学の観点からも極めて重要であり……」、「公共哲学を反映した施策であり……」なんて、もっともらしい説明ができてしまうことになるからです。また、仮に公務員の採用試験にまで「公共哲学」が導入され、○×試験でもされるようなら、これはもう最悪です。「次の中から、公共哲学として正しいものを選べ。」悪い冗談のようですが、客観学のままであれば、このようになる可能性は少なくないと思います。
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[(哲学する普通の市民)荒井達夫 ] [2006/10/22 16:26]
大学教授が考える「公共哲学」を公務員が学び、公務員がそれを民に示す。「・・・・・・グローカル、グローナカルな施策が今日、求められている。」と。そこにあるのは、決して「民から開く公共」ではなく、単なる「公共というお題目」に過ぎません。現在の「公共哲学」が、大学の講座や公務員研修等により全国各地に広まれば、「官知、制度知、専門知」による民の支配は強まることになるでしょう。「公共哲学」自体が、普通の市民には理解できない言葉で語られているのですから。本当に「哲学する」ことをしないで、「哲学知識」だけを身につけた人たちが、「民のため」という気になって行政を執行していくことになると思います。空恐ろしい話です。
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[ (哲学する普通の市民)荒井達夫 ] [2006/10/22 19:28]
(上からの続きです)公共実現のための権力機構である官が、常に市民によるコントロールを受けなければならないことは、民主政治の基本原理であり、その意識を常に持っていることが、職業公務員の基本道徳であるはずです。「公・私・公共三元論」は、この点の認識が浅すぎるのではないか、と思います。わざわざ「政府を担い手とする公」を区別し、「民が支持しない公」を想定することになるからです。公務員が学ぶべき学問として、「公共哲学」がふさわしくない理由です。
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[ タケセン ] [2006/10/22 22:39]
元来、市民社会・民主制社会における政府とは、公共=民の利益のために存在しています。その担い手の公務員も然りです。それ自身の利益(官の利益?)を追求するものではありません。もし、現実にそうなってしまったならば、それは理論次元の問題ではなく、実践次元の問題であり、理論・学によってどうにかなるものではないのです。
実践レベルの問題解決には実践知が必要で、それは客観学とは異なる「現場における生きた思考」からしか生じません。「大学知」で歯が立つことではないのです。そんなことはないでしょうが(?)、もしも大学人が、学知で現実問題の解決ができると思っているとしたら、オメデタキ人としか評しようがありません。
さて、実際はどうなのでしょうか?
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[ タケセン ] [2006/10/23 11:09]
補足です。「現場における生きた思考」の「現場」は、以下のような意味です。
例えば、教育問題を考える場合には、子どもたちに深く関わる人たちが感じ、思い、考えることを土台とする知=「現場の実践知」を鍛え上げていくことが一番に求められることですが、これと同じで、
公務員のありようや制度の問題を考える場合には、それに関わる人たち(公務員を雇っている人たち)=一般の市民が、感じ、思い、考えることを土台とする知=「現場の実践知」が一番必要です。
それは上記の場合と同じく、民知という立体的な全体知を鍛え上げていくことであり、専門知=大学知で解決できると思うのは、虚妄です。部分としての知は総合判断の知とは頭の使い方が違うからです(民知と専門知の関係については、9月25日のブログを見てください)。




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