この下のブログにあるように、大変活発な議論ができて素晴らしい!!と思います。
みんな生徒ー先生はいない、という「白樺討論精神」はとっても素敵、生産的ですね。
私の結論を以下に簡潔に記します。
公共哲学には、さまざまな見方があり、特定の学者が定式化する(できる)ものではありません。
公共性とは何か?についは、一つの固定された概念が「正解」としてあるのではなく、ふつうの多くの人が市民の立場で検討するものであり、開かれています。「哲学(する)」と同じく、運動として見るのがよいのです。
したがって、公共哲学とは特定の思想ではなく、公共をひらいていく営み・努力だと考えられます。
よりよい考えが提示されればその方向に動くので、公共哲学の内実はたえず変わっていくものです。
皆に分からないような言葉を使う人の狭く固い「公共哲学」には存在理由がありませんので、自然淘汰されていくはずです。
私は、「荒井さんの心配は杞憂だ!」、というようにしていかなければいけないと思っています。そうしなければ、「公共哲学」は、反・公共的な「公共事業」(一部大学人の独占事業)の一つに成り下がってしまいます。
武田康弘