10月8日の稲垣さん(宗教哲学者)との討論に先立ち、白樺の知の理念(民知)にについて、9月25日のブログに明瞭に記しておきましたが、正直のところまだまだ民知という全体知による討論には難しさがあることを感じました。
心身全体による会得という本来の知によって、現在の学知の不毛性を乗り越える必要を改めて感じた次第ですが、そのためには、恋知(哲学)の初心に帰ることが何より必要です。日々の具体的な経験を自分のことばで考え、語り合う営みが。
(「白樺ML」には忌憚のない鋭く本質を抉るメールが何通も寄せられていますが、ブログでの公表は差し控えます。稲垣さん、古林さん、ごくろうさまでした。参加者のみなさん、ありがとうございました。)
以下が民知という立体としての知=全体知の結論部分ですが、ぜひ、全文もお読み下さい(クリック)
私たち白樺同人がいう「民知」とは、この生活世界から立ち昇る「全体知」(立体的な主観性の知)のことで、それは、誰でもが普段の生活の中で物事を判断している「知」ですから、馴染みのある親しみの知です。ただ、これを放置せずに、全体知のレベルを上げることに意識的に取り組もう!というのが、民知の運動=実践というわけです。自他の専門知を現実に生かすための知=全体知を鍛えるのが目的です。全体知に秀でた人はいますが、全体知の専門家!?などは存在しません。範囲を限り、平面化することで一般性を得る「部分知としての専門知」は、生活世界から立ち昇る「民知」という「全体知」(立体的な主観性の知)の中ではじめて意味と価値をもつ、これは原理です。
武田康弘