思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

日本は管理されたリンチ・シゴキ列島!? Zさんとのコメント対話

2007-10-02 | メール・往復書簡

【日本の伝統?ー集団暴行の大相撲】に対するZさんのコメント(ミクシー内)とわたしの応答を載せます。

2007年09月29日 11:56

このようなリンチは何も角界に限った事ではないです。
日本のあちこちにあります。
それは仏教界もそうです。
永平寺に限らず、日本のお寺の修行とやらも
殴る蹴るが当たり前にあります。
ついでに言えば体育会系の部活などそうですね・・・・。
こういう事が特殊な世界という理由だけで容認されている。

角界には角界の掟やしきたりがある。
おそらくは竜虎の指摘はそういう事が言いたかったのでしょう。

しかしシゴキを新入りに課すからには、彼らはそれに相応しい振る舞いや責任を果たしているのか?シゴク側にもシゴクからには振る舞いや責任は問われる筈です。
それが無ければただ単に弱いものイジメのための陰湿なリンチにしか過ぎません。
で、龍虎さん、新入りをシゴクだけの資格がある振る舞いや責任を今の角界が果たしていると断言できるでしょうか?

しかも力士という身体を酷使する武道が出来ないほどのリンチが横行していることをどう考えるのか?

更に言わせてもらえば、もともと相撲とは神事において奉納される儀式をあり、
横綱とは大関のなかでも人間性も含めて優れた存在に対して与えられるものであり、神に近い存在であるがゆえにしめ縄で聖別されるものです。
だから朝青龍は(超人なのだから)ずる休みは許されないし、そういう横綱の器でない朝青龍を選ぶというヘタレばかりやらかしている相撲協会に偉そうにリンチを正当化する資格などあるものか。

相撲という格闘技は古い歴史と我々の誇りを背負っているがゆえに、
このような血で穢されてはならないのではないだろうか?

以上の事を踏まえて思う事があります。

少なくとも多くの若者はこんなアホな事ばかりやっている角界を軽蔑こそすれ、
入りたいとは思わないということ。

他の人間はどう考えているかなんか私の知った事ではありませんが、
別に大相撲が無くなったって全く困らないし、
それこそ陰惨なリンチで新入りをよってたかって殺すようなものなど、
私は御免こうむりたものです。
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タケセン 2007年09月30日 09:20

Zさん、
踏み込んだよいコメント、感謝です。
わたしのブログよりも内容があります。

わたしは幼い頃からテレビで相撲はよく見てきましたし、毎日「砂場」で友達と相撲遊びをしていました。
いまだに(55歳)腰が強く、生徒(大学生まで)や友人で私に勝てる者は一人もいませんーホントウです(笑)。
わたしは、高校や大学で柔道部の連中よりも相撲は強かったですが、一度も運動部に所属したことはありませんし、したがって一度もシゴキを受けたことはないのですが、シゴキを受けた連中よりも強いのは、どういうわけか!?ですね(笑)。実は、自分でスポーツ科学を勉強して、自分に合ったトレーニングを面白く工夫しながらやっていたのです。
集団主義などというものは、人間を弱く愚かにしかしないとわたしは身をもって証明してきたわけです(笑・笑)。
日本の【部活文化】は、上位者に面従腹背するレベルの低いー愚かな人間を生むだけです。

それから、わたしは、神事としての相撲についてはよく分からないのです。単純に面白がっていただけなので、格闘技の一種としか見てきませんでした。したがって、朝昇竜の元気いっぱい・闘志むき出しのやんちゃ相撲はとても面白かったです。
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2007年10月01日 01:21

日本の社会の場合、面従腹背よりももっと屈辱的です。

上位者に面従腹背する事そのものが愚かであるというよりも、
むしろ日本の社会はその上位者がちゃんと責任を取らないで、
下の人間にすべて押し付けてしまう所にこそ問題があります。

上位者にとって何か都合が悪い事があると決まって
意味不明な精神論を振りかざし、問題解決から逃避しようとする。
戦前も戦後も何も変っちゃいない。

面従腹背するというのには、面従腹背する側の利害や思惑があるという
意味で主体的な行動であります。

しかし我が国の場合は「奴隷の軍隊」ですので、
そのような面従腹背すら入り込む余地が無く、
そこには判断停止しかない。

ついでにこのような思考停止の弊害は様々な所で起きています。

例えば、それこそ戦前は鬼畜英米と国民を散々煽ってきた連中が、
敗戦後に舌の根も乾かぬうちにアメリカにゴマをする・・・・。

何でひとりの人間がどうしてこうも豹変出来るのか?
それは主義主張や思想を持っていては、絶対に出来ない事です。
そして誰もが責任を取ろうとしない、取らせない。

このような貧困な精神風土においては、
リンチは日常茶飯事に起きるのではないでしょうか?
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タケセン 2007年10月01日 14:11 さん、なるほどです。

「思考・思想の貧困」のために「面従腹背」も成り立たない!?そういう事態にまでなっているということですね。

考えない、思考力を鍛えないという精神風土の下では、なにもかもが幼児化して、即自的欲望と反射があるだけ。仕事は実務とハウツーで、というわけですね。

思考・全体的判断・個人の自立=輝きのない世界では、人の世界は閉じて集団主義になり、その結果、イジメとリンチの蔓延するおぞましい世界が出現するのでしょう。
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 2007年10月02日 00:50

でも、それは本当の意味での集団主義ですらありません。

集団という概念を表象するには、集団を構成する個という概念が
無ければ成立ちません。

それこそサルトルの謂う所のアンガージュマンという積極性を持たない社会に
集団という概念は存在しないのではないでしょうか?

烏合の衆という言葉によってしか表現出来ない
畜群があるにすぎません。

日本の大衆の圧倒的大多数には集団はありません。

爺さん婆さんどもには「世間」という不可視の陰湿な暴力はあるでしょう。
センター街をたむろしているガキどもには、「マス・メディア」とか「ケータイ」があるでしょう。それはひょっとしたら「ゴーマニズム宣言」なのかも知れません。

しかしこの国には消費者という群れはいても、集団が無い。

もし日本に本当の意味で集団があるのであれば、
そこいらでデモどころか反政府テロが起きています。
社会保険庁の職員は今ごろ虐殺され血祭りにされているはずです。

社会契約を反古にするような政府は、
どのような手段に訴えてでも倒さなければなりません。

でも、そんなことは起きません。
共通した利害を持つものが共闘して、
問題に立ち向かうということはまず起きようがない。
それは本当の意味での集団が存在せず、個人個人が
みんなバラバラにされているからです。

バラバラになった個人はマスメディアに翻弄される。
そこには欲望に群がる群衆はあっても、集団は存在しない。

せめて面従腹背するぐらいに民度が成熟すればマシなんですがね・・・
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タケセン 2007年10月02日 11:55

「烏合の衆」というのは、確かに自覚的な「集団」ではないですね。
「私」がないところでは、無自覚的な集団が結果としてできるだけであり、それは「集団主義」にさえならない、というのは、論理的にその通りだと思います。
バラバラな人がいて、それは「状況」も「私」も自覚的に捉えることがないために、その時々の気分・ムードに流されゆくだけー現代のオートマチックな世界の中では、人間自体もオートマチックになり、流される以外の生き方ができない、というわけでしょう。
この巨大化した管理社会の中では、直接的な「抑圧」の代わりに「システム化」が個々人の自由を奪ってますが、奪われていることが自覚できない不可視の管理になっているために、人は、バラバラなままで、集団にすらなれない不幸に沈む、というわけですね。
朝昇竜の相撲の面白さは、管理をぶち破る幼児的なエネルギーにあった!ということでしょうか?
脱線しましたが、
思想は、イデオロギーにしかならず、哲学は、哲学説のチョイスでしかないー自分の日々の具体的経験を踏まえて、自分の頭で考えることがなくなれば、人間は自動人形のような生を送るしかないわけですが、ここからの脱出は容易ではないです。「優秀者」ほどこのワナに深くはまっています。
?五感・心身全体による具体的経験、?想像力世界への着目と開発、?自問自答による「私」の深化、?自由対話による自他の意識の覚醒と解放この4つをよく行うことをわたしは実践していますが、それはエロースそのものです。

Zさん、よいコメント感謝です。





コメント
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