思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

官僚と政治家

2007-10-31 | 社会思想

政治家は、お人形!
官僚は、人形使い!
実務を仕事とする官僚が、なぜ、選挙で選ばれた政治家をコントロールできるのか?
民主主義=市民的公共が実現しないわが日本の悲しい現実は、霞ヶ関の官僚が、実質的に政治家を支配しているところに直接的な原因ありますが、
この事務・実務を担当する者の意思が、政治思想と政策を左右できてしまうというのは、日本では、大元に戻して考える哲学次元の営みが乏しいからだ、とわたしは見ています。生活世界の具体的経験を踏まえて、自分の頭で納得できるまで考えてみるという自問自答と、互いにその根のある考えを自由対話によって交換し合う世界がないために、「なぜ、なんのため」の原理的追求ではなく、「どうすればうまくできるか?」という実務的思考だけが大手を振るうのではないでしょうか?

その日本の精神風土は、なにがよりよい考えなのか?の追求を放棄し、ただ多様であればよいという「価値相対主義」及びそれとセットになっている自己感情絶対の「自分教」、それとは反対に見えるが実はひとつメダルの表裏にすぎない「集団同調」による「全体一致」-それは「協調性」という言い方で美化される-の【二つの間をいったりきたりする】現象を生んでしまいます。
絶対や超越という発想とは無縁の「普遍了解性」を求める知的努力は、ダサいもの時代遅れのものとして体(てい)よく排除されてしまうのですが、これは1980年代に隆盛を極めた「ポストモダン」という名の現代思想とうまく符号しています。ヨーロッパのあまりに普遍主義的な哲学への欧米人自身による「自己批判」の尻馬に乗っかって、普遍主義とは反対に「曖昧さと自己感情の絶対化」を得意とする?日本においてポストモダンが言われるのですから、これはもうマジメな突き詰めを一切せず各自が勝手な事を言うだけ、という思想状況―知的退廃しか生みません。日本の大学でも新しい学部ほどこの傾向は強いようです。意味への探求による意味充溢がない知であれば、人間の生とは無縁の「知の為の知」しか生まず、「学」はそれ自体が目的化されて現実に対する有用性を失う結果、面白くなく意味のない「形だけの知」が支配する愚かな世界が現出してしまうわけです。これでは知も学も「職業」か「趣味」以上にはなれません。人間の具体的な生を支えるほんとうの知=恋知(哲学)として考える悦びはないのです。学者がつくった新語や新説を一生懸命に暗記する「バカバカしい知のゲーム」をまともな人や生活者はやりません。
「知」が中心的な役割を担う現代社会では、知のありようが、しらずに人間の行動を決め、社会のありようを決定してしまいます。生活世界の具体的経験につき、深く強く考えること、土台・原理を探り、その上にしっかりとした考えをつくることが健康な社会を生むのですが、そういう地味で正当な根のある「知」から逃げ、ポストモダンの知の遊戯―底の浅い言葉や新説の羅列に幻惑されて右往左往する状況では先が見えません。

このように健康な思想がない状況では、ますます、事務・実務という「現実次元」が、政治思想という「理念次元」を配下に治めるという逆転現象に拍車がかかり、その時々の状況と都合でただ流れゆくだけという事態にしかなりません。「なぜ、なんのため」という原理的追求をパスし、「どうすればうまくできるか」という実務的思考ですべてが決まるのですから、問題の本質的解決は出来ません。原理・本質・理念などの目に見えないものには関わらず、ただ実務的能力をつけ事務仕事をこなせばいいのだ、というのであれば、人間の生はエロースを失い、灰色の時空間が支配するしかないでしょう。

理念・ロマンなき現実とは、みすぼらしき現実しかうみません。理念・ロマンなき現実には意味がないのですが、そのことを深く了解できている人は、あまり多くはないようです。「人間は物質的欠乏には耐えられても、意味の欠乏には耐えられない」(竹内芳郎)はずです。

官僚と政治家のことで書き出したら、こういう話になってしまいましたが、日本の「思想なき現実主義」が根源的な不幸を生むことだけは確かです。

武田康弘






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