思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

「公共世界」は「実存」から生まれるー「自由対話」によって。

2007-10-07 | 日記

一見そうとは思えないでしょうが、現代において公共世界を拓く哲学的基盤は【実存】の思想です。
まず、一人ひとりが自他を「欲望存在」(実存)であることを自覚しなければ、強制は生まれても公共性は生まれません。自他が共に欲望存在であることを知り、それを肯定することがはじめの一歩です。

あらかじめ「よい」の雛形(ひながた)をつくる・道徳や理念を先に置くと、公共性とは、外的なもの=要請や命令に過ぎなくなり、人間の生の現実とはズレていきます。こうしたい、これがいい、という私の心の内側=欲望から出発し、お互いの欲望を認め合い、その上で、集団生活―社会生活の約束事を決めていく。そういう順番で考え、関係性をつくり広げていくのが、公共性を実現するということです。互いの欲望がぶつかり合えば、妥当を導くための話合いをする。どう考え、どう行為したらよいか?【納得を生み出す思考と対話の力をつけること】が公共世界を拓く鍵です。

奇麗事―いかにも立派な理念・道徳律を掲げると、それはタテマエを生きる自己欺瞞しか生みません。己の「こうしたい」をよく見つめ、その場所からほんとうに自他の納得をつくるにはどのように考え・行為したらよいか、それを実情に即して探っていく現実的な思索でなければ哲学にはなりません。ただ理念を掲げ、そこに向かって歩め、という考え方・言い方は、特定の主義や宗派的思考でしかないのです。

ところが、わたしが見るところ特定の主義や宗教を嫌う人もまた実は自分自身が頑なで、自分の枠内から出ようとせず、【自分教】とでも呼ぶべき精神状態に陥り、他者との精神の交歓ができないことが多いようです。自己感情が癒される範囲でしか生きようとしないために、精神の飛翔がないのです。こういう甘えの精神では、【納得を生み出す思考と対話の力をつけること】は到底不可能で、その時々の自己の感情世界に自閉する頑なな「自分教」を防衛する生にしかなりません。

これでは公共世界を拓くことなど出来るはずがありません。最もひどい主義や宗派的な生に転落する他ないのです。「自己相対化」ができなければ、自分の生は広がらず、宗派的・党派的・団体的な言動に終始する人生しか得られませんが、そうなれば、生き生きとした実存の輝きは失われて、欲望は自覚されずに背後に隠れて濁り、腐っていきます。欲望は自覚→肯定されないと、ニヒリズム→ルサンチマン→根源的不幸を生みます。

自己相対化―自己解放の試みは、自己を活かす基本条件ですが、それを可能にするのは、自他がリアルタイムで頭を回転させる【自由対話】―精神の交歓です。自分の観念を架空の世界ではなく現実において活かすのは、自分の想念を互いに他者の中で開き合う営み以外にはありません。精神は閉ざせば濁り、腐るのです。

欲望の自覚→実存を開き・広げる営みが基底になければ、「公共」は、要請や命令でしかなくなります。古い「公」の考え方では、権威と序列による上からの秩序化しかなしえないわけですが、これでは納得を生まず、民主制と背反してしまいます。「公共」とは、実存・心の納得に基づく秩序化を目がけるものであり、それを現実に可能にするのが自由対話です。固めた自我同士の駆け引きや取引ではなく、自他の想念の交歓としての自由対話―対話的精神の羽ばたきが公共世界を生むのです。

2007年10月7日 武田康弘


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする