思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

「開かれた私=対話精神に富む私」の素晴らしさー綿貫さん古林さん荒井さんのコメント

2007-10-08 | 恋知(哲学)

昨日のブログに対するコメントは、それぞれの視点から内容に踏み込んで新たな展望を与えてくれたもので、まさに「開かれた私」-「対話精神に富む私」の素晴らしさを実感しました。ほんとうに感謝!です。以下にまとめて記事にしますので、ぜひご精読をお願いします。
武田康弘


[ 綿貫信一 ] [2007/10/07 16:15]
単なる「個」とするのではなく、公共世界を拓く哲学的基盤として「【実存】の思想」を置くところがとても分かりやすく、納得!です。
実存という言葉の前では、「個-公」だと単なる対義語のようで、一般化されてしまいピンと来にくく思えます。

理念先行、「自分教」への固執は、常に意識していないとついつい流されてしまいがちです。その方が楽な生き方だからなのでしょう。
そうならないために私は、よく考え、哲学するように心がけています。

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[ 古林 治 ] [2007/10/07 20:55]
社会理論を語る学者さんの多くが、個(実存)の問題に触れたがりません。個の問題は人それぞれだということらしいですが、実際には、個の問題から社会理論へ到る思考の深い掘り下げができていないということなのでしょう。このことがその社会理論の実効性欠如の原因となっているように思います。公共とか民主制を語る場合もおそらく同様でしょうね。単なる理論として語ったところで、現実には何の力も持ちません。
一方、武田さんの言うところ、実に説得力があります。それは武田さんが自らの生(実存)において実践し続けている裏づけ(実体験)と深い思考の掘り下げるがあるからなのでしょう。
社会理論を語る人たちにも自身の実存を鍛えることを望みます。自戒も込めて。

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[ 荒井達夫 ] [2007/10/07 23:32]
「こうしたい、これがいい、という私の心の内側=欲望から出発し、お互いの欲望を認め合い、その上で、集団生活―社会生活の約束事を決めていく。そういう順番で考え、関係性をつくり広げていくのが、公共性を実現するということです。互いの欲望がぶつかり合えば、妥当を導くための話合いをする。どう考え、どう行為したらよいか?【納得を生み出す思考と対話の力をつけること】が公共世界を拓く鍵です。」
ここには、「公共する」ことの本質的意味が簡明に示されていますね。それは、民主制原理の基盤であり、また、そもそも「哲学すること」とは、そういうことなのではないかと思います。さらに、この説明で、憲法がなぜ思想信条の自由、言論表現の自由や、法の下の平等などを定めているのか、深く納得することができると思います。民主制国家の憲法は、人々に「公共する」ことを可能にするための法制度的保障であると考えるのです。

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[ タケセン ] [2007/10/08 14:06]
綿貫さん、古林さん、荒井さん、
それぞれの視点からの見事な内容のコメント、感謝です。
まさに、一方では、決まりきった上・外からの一般的な道徳=「仮面の生」に誘導する人間性否定の愚か極まる言説があり、また、他方では、「自分教」の中で孤塁を守り、ただ仲間内でしか通用しない幼児的な愚か極まる言説がある。この両者を行ったり来たり、これがわが日本の現状だと思います。「近代的自我の確立」も「他者の優先」も共に貧しい思想・エロースを生まない愚かな想念でしかありません。「個我」を基点にするのではなく、「他者」を基点にする(不可能)のでもなく、「開かれた私」ー「裸の私」-「解放された私」ー「個我ではなく純粋意識としての私」ー「対話精神に富む私」を基点にする、これがよき生の原理ではないでしょうか?そこからしか普遍性のある「公共」は生まれないと思っています。



コメント
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