思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

民主主義の原理について(公共⊃官)

2007-10-16 | 社会思想

何をいまさらとも思いますが、どうも、「学」に従事する人々が流行を追いかけて「原則」を踏まえない人が多いようなので、簡単に民主主義の原理について書いてみました。どうでしょう。

まず、言葉の定義ですが、行政機関の機能・役割・仕事をひと言で「官」と呼ぶことにし、市民の共通利益になる考えや行為を「公共」と呼ぶことにします。

この場合、「官」は、それ独自の組織を持ちますが、その組織の存在理由は、市民の「公共」を実現し,支えるところにあります。
明治憲法下の日本の場合には、「官」が市民的な公共とは別に「公」という国家的な公共をもちましたが、それは、主権者が天皇であり、国民は臣民と位置づけられ、天皇の赤子とされたからです。
現・日本国憲法下の日本では、主権者は国民(市民)であり、国民(市民)に税金で雇われている行政マンは、主権者の公共的利益を実現するために働くわけです。

したがって、市民的な「公共」とは別に「官」独自の公共=公を置くことは、原理上許されません。「官」とは、「公共」の中にあるのであり、官と公共が並立しているのではなく、「公共」を支えるためにのみ「官」は存在するのですから、公共⊃官なのです。
以上の「主権在民という民主制社会の統治原理」をしっかり自覚することがはじめの一歩であり、それなくしてはすべてが砂上の楼閣で、どんな理論も意味を持ちません。

民主制の社会を前に進めるためには何をどう考え、どうしたらよいのか?それが社会問題を考え、解決するための唯一の立場・視点のはずです。
自由の相互承認に基づき、主権者の共通利益を探っていく営みが民主制社会における広い意味での政治であり、そのために何より必要なのが自由対話です。
民主主義という思想を深めてゆくこと=民主主義を哲学することが「公共」を実現するための基盤であり、自由対話は民主主義による統治=自治の実践であって、それにより「公共」は現実のものとなるわけです。

武田康弘。


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