「私」と言っても趣味やプライベートな生活上の私と、社会的な問題に対する言動を行う私、とは次元を異にしています。社会について考え・行動する私は、その言動を他者=ふつうの多くの人の目に晒(さら)すことになるために、必然的に「公共的な私」になります。
この世で現実に生きる私とは、単に私であるのではなく、いつも「公共的な私」と共にあるのです。肝心なのは、そのことをよく自覚することです。それが、現実の社会生活において私が私の可能性を開くための条件であり、社会的な責任を果たすことにも繋(つな)がるわけです。
私―公共的な私が発言し行動するのは、まさに「公共する」ことであり、公共とは、私に依拠しています。政府でも官でも民でもなく、公共の出どころは私であり、私と私の「自由対話」が公共を生むのです。公・公共は、政府や官や民間団体などという【組織・機構】にあるのではなく、その言動の【中身・質】にあるわけで、その良否や程度がどうであるかの判定は、ふつうの市民の自由対話によって導かれるものだと言えます。「民主制の本質とは「対話」・「議論」(ほんとうの自由対話)にある」とは、そういう意味なのです。最大の公共とは、ふつうの市民による自由対話が生み出すもの、これは民主制の原理です。だから議員は市民の「公共的な私」の意思の「代行者」なのであり、代表者ではないのです。ついでに言えば、多数決とは民主制の原理や本質ではなく、手段に過ぎません。
武田康弘