思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

「公」と「公共」の問題

2007-10-30 | 恋知(哲学)

?役所が市民の利便性をはかる仕事を「公」(おおやけ)の仕事と呼び、
個人や民間団体(例えば白樺教育館の活動)が市民的な利益をはかる仕事を「公共」と呼ぶとすれば、もちろん「公」と「公共」は異なるものです。単純化して言えば、前者は一般的な利益をはかる仕事であり、後者は普遍的な利益をはかる仕事だ、と言えましょう。
?わたしが、官の仕事を公と呼んで市民的な利益と分けてしまうのはダメだ、というのは、「官」が市民的な利益とは異なる独自の「公」という領域をつくり、その場所に居直ることは許されない、という意味です。

わたしの教育の仕事は、経営形態は個人ですが、その内容においては極めて公共性の強いものです。しかし、「私」から始まる個人経営の形態であるために、公共的な仕事とは一般には認められてきませんでした。わたし自身は、31年間一貫として「公共的な仕事」であると考え、そう言ってきましたが。だから、わたしは、「私」からはじまる個人経営であっても、それは内容によって「私」に留まらず「公共」である、と考えるわけです。その場合は、「公」と「公共」とは明らかに区別されます。

そういうわけですから、?の視座から言えば、役所の仕事(「公」)と私から始まり皆の利益を生む仕事・活動(「公共」)は当然異なるもので区別されますが、?の視座から言えば、「官」はあくまでも市民の共通利益をはかるために存在するのですから、それ独自の公を持ってはならず、公共の利益のために、というところに常に照準を合わせて仕事をしなければいけない、ということになります。

なお、わたしは30年間以上、?の公共的な活動・仕事を続けてきたのですが、そこでの「私」は、私的利益を追求する私ではなく、「私の可能性を社会的現実において開き、社会の中で私を活かす私」(6月14日の書簡「自己という中心から公共は生まれる」)であったわけです。ほんとうの「公共」とは、己を犠牲にして得るものではなく、広く社会全体を私(たち)のものとする発想・知恵であり、広義の「得」を生むものです。「私」を堀り・開発することが「公共世界」をつくるわけです。その公共をこそ「官」(税金でつくられた公共実現の機関)はサポートするべきであり、利潤の追求を目的とした企業活動と結びつき便宜をはかるのは、言語道断と言わねばなりません。これからは、【「私」から始まる市民的公共】が称揚されねばならず、大企業の【企業的私益】と政・官が結びついた社会は、人間を営利存在としてしか見ない文化を生み、多くの人を堕落させ、全体を不幸にしていくだけです。

【私から始まる市民的公共】とは、これからの「自然環境 内 存在」としての人間の生―新たな豊かさ・内的な悦びの生をつくるために最も必要な概念・思想である、とわたしは思っています。30年間以上にわたる不変の確信として。

武田康弘




コメント (2)
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