ある理念、例えば民主主義を、理論として・第二次言語としての世界で語るのではなく、日々の生活の中で具体的に生きて働くものとして活かには、「理念」(民主主義)が生まれる背景や理由を知ることが必須の営みで、それを哲学すると呼ぶわけです。
「理念」から出発したのでは、理念主義にしかならず、哲学することとは背反してしまいます。生活世界における生の現実から出発し、具体的現実に即して思索を深めることは、理念や学の前提から出発する不毛性を超えて、深い納得(腑に落ちる)を生み出すはずです。以下の記事は半年ほど前のものですが、荒井達夫さんのコメントと一緒にして再録します。
2007/03/31のBlog
ある理念が生まれた理由と、ある理念を生む理由の探求ー哲学の仕事
生活世界における個々人の生々しい声(黙せるコギトー)・心の本音、
学として理念化される前の多様な想い、
社会生活の中で失っている赤裸々な自己意識、
これらを一言で「実存としての意識」ないしは、「生の現場」と呼びましょう。
哲学の中心的な仕事は、
さまざまな「理念」が生まれた理由を「実存としての意識」(生の現場)に戻して、そこから分析するものであり、また、ある理念をつくる時には、それがどのような「実存としての意識」(生の現場)に応えるためなのか?を明らかにすることだとわたしは確信しています。
「学」や「理論」以前のありのままの「心」を知ろうとする営み抜きには、「理念」は理念としての意味と価値を持ちません。理念を生きた有用なものするには、生の現場=実存としての意識の場に戻しての考察が必要で、それが哲学するということなのです。ある前提=知識から哲学することはできません。生の現場を体験抜きに知識で見ることはできないからです。
哲学(恋知としての哲学)する営みが弱ければ、人間の生・この世のすべての営みは砂上の楼閣で、後には何のためかは分からない「理念」、意味のない「技術」、知の廃墟、さらに厳しく言えば、人を生きながらにして死者とするシステムが作られるのみです。
【コメント】
[ 荒井達夫 ] [2007/04/01 07:38]
ある法制度(例えば、人材バンク)について議論する場合、その役割や機能を現実具体的に考えるとともに、その法制度がそもそもどのような法の理念に基づいているのか、吟味することが非常に重要であると思います。
人材バンクは、法の手段。各省による再就職あっせんの禁止が、法の直接目的。官民の垣根をなくして人材移動を活発にすることが、法の間接目的。では、法の究極の目的は何か。それは、どのような理念に基づいているのか。
このような思考、議論がきちんとされていないところに、問題が発生していると考えています。
―――――――――――――――――――――
[ タケセン ] [2007/04/01 13:48]
荒井さん、コメントありがとうございます。
「その法制度がそもそもどのような法の理念に基づいているのか、吟味することが非常に重要であると思います。」(荒井)
その通りだと思います。こういう一番大切な営為がないのが日本の現状ですね。
ただ、さらにその先を考えるのが、哲学の重要な仕事です。
それは、【ある法の理念が生まれたのは何故か?】を生活世界の現場・赤裸々な心の本音から見ようとする作業なのですが、これがないと生活世界の「具体的経験」ではなく、ある「理念」から出発することになって、根っ子が切れた理念=理念主義へ陥り、皆の生の実感とはかけ離れてしまいます。哲学するとは、理念がつくられるおおもとを探る営みです。
―――――――――――――――――――――
[ 荒井達夫 ] [2007/04/01 17:46]
法制度がどのような理念に基づいているのか、しっかり吟味するためには、「理念がつくられるおおもとを探る営み」がなければダメですね。つまり、哲学なくして法の理念は語れないと思います。そして、それは「生活世界の現場・赤裸々な心の本音から見ようとする作業」であるということ。実は、私、つい最近になって、このことを意識し始めました。大学クラスで皆さんと、ああでもない、こうでもない、といろいろ話をしているうちに、血の通った思考になってきたように思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
武田康弘