思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

公共とは合意によってつくられるルールの束のことー自由を互いに認め合うことのエロース

2007-12-09 | 恋知(哲学)

「私」が、私のロマンー恋愛や芸術や趣味を追及する自由や、「私」が、私の恋人や友人や・・と共に幸福を追求する自由をお互いに認め合うこと。それを不動の基盤(普遍的原理)として社会=公共世界をつくること。

以上は、近代以降の【国家存立の原理】であり、この原理に反する思想は認められない、というのがシチズンシップ(市民精神)によってつくられる「主権在民国家」=民主制国家の中心思想=「社会契約論」です。

ここで注意しなければならないのは、各人の幸福追求は、「私」の世界内でのことであり、極めて主観的なものであることです。「公共」という領域においては、各人が自他の幸福追求ができるような条件を整備することが課題となるのであり、「公共が幸福をつくる」のではありません。「幸福実現を目的にした公共」と言えば、それは宗教であり、公共とは背反してしまいます。繰り返しますが、個人が幸福を自由に追求できるような前提条件を整えるのが公共領域の仕事・役目であり、幸福という極めて主観的な「私」の領域を「公共」がつくることはできないのです。

【公共とは、合意によってつくられるルールの束】のことです。
それ以上でもそれ以下でもありません。その合意形成のプロセス=自由対話こそが命です。したがって、民主制国家における教育の本質は、各人がエロース豊かな自由対話を交わせるようになるための知的訓練だと言えます。自問自答と自由対話の繰り返しによって有用な考えを生み出す力を育成することが、民主制国家における教育の屋台骨です。この自問自答と自由対話のセットは、それ自身がとても面白いもので、一度ほんとうに他者との考えの自由な交歓を楽しむ経験をした後では、もう後には戻れません(笑)。【自由を互いに認め合うことのエロース】は、人類が到達した最高の境地だと言えましょう。民主制社会における国家とは、その原理(自由の相互承認)の具現化でなければいけないのです。

武田康弘



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