思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

官と公共哲学

2007-12-14 | 恋知(哲学)

官は、そこに勤める役人が給料をもらうためにあるのではないはずです。
官は、関係する企業や組織の利益・利便性をはかるために存在するのではないはずです。
官は、ふつうの市民の利益・安全を担保するための組織でなければならないはずです、
官は、市民サービスのための機関であり、役人は市民サービスマンです。これは原理であり、誰も異論・反論はできません。

ところが、いま毎日報道されている事態は、恐ろしいほどの【原理違反】です。このような事態が続けば、旧社会主義国の崩壊と同じことが起きても不思議はありません。謝って済むレベルを超えています。もしこれで経済的な貧困層が増えれば、何が起きるか分かりません。序列・権威主義による不公平・不公正や金持ち優遇の政策を転換して、政治的・経済的格差の是正に本気で取り組まないと、物騒な事件・社会を破壊するような事件が起きる可能性もあります。

どだい、同じ日本という国に住む者同士がひどい【較差】のある生活を強いられるのは、道義的にも許されることではありません。こういう不公正を助長するような政策を続ければ、政治に対す不信感が増大し、国としての安定・安全も脅かされていくでしょう。

官の不祥事は、政治の貧困(政権交代のない遅れた政治文化)とセットになって、いまわが国を【無・倫理】の国にしていますが、これは大変危険なことです。
まず官に何よりも求められるのは、自分たち官の存在とはなにか?という存在規定です。存在意識の明晰化が何よりも必要で、それが曖昧であれば、後はすべて砂上の楼閣に過ぎなくなります。主権者が市民である民主主義社会において官が仕えるのは、ふつうの市民である、この簡明な原理を深く意識化していく営みが問題解決の鍵なのです。「当たり前」の実行を可能にする哲学とその具体的実践が求められます。

公共哲学とは、専門の哲学者(大学教授等)によって特別な言葉で語られる哲学ではありません。ふつうの多くの人が【生活世界】という共通の基盤の上で共に語り合うことを可能にする【開かれた対話的理性】のことです。知識の累積や披露とはまったく別次元の考える営みを指すのです。「当たり前」を実現する市民の公共性を、私や民や官が共働でとり組むのが公共哲学の原義であり、意義です。ほんらい市民の哲学である公共哲学は、そうであるからこそ官にも必須科目・実践として与えられるものなのです。

武田康弘




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