【恋知と楽学の哲学対話】が掲載された「公共的良識人」紙の12月号が出ましたが、すでに対話は次の段階に進んでいます。以下に武田の第三次の一回目を載せます。
「命」 2007.12.13 武田康弘
第三次の往復書簡をはじめるにあたり、キムさんからお電話でテーマは「命」(生命・生活)でどうだろうか?というご提案でしたが、わたしもそれがよいと思います。
ちょうど日曜日に『生命のフリーズ』(フリーズとは装飾性をもつ連作)をライフワークとしたムンクの特別展(上野の国立西洋美術館)を見てきたところです。愛と性を根源のモチーフとしたムンクの絵画は、有名な「叫び」に代表される前期の実存の不安・狂気性、マドンナ・性愛から後期の思春期のこどもたち・長老と少年・女性と子供・働く人々へとテーマは変わりますが、一貫として生命をモチーフとした実存的な絵画です。
わたしは幼い頃から体調のよくない日が多く、内臓疾患に苦しめられた経験から、「生と死」の観念は、恐怖や不安と一体となって自己存在を支配してきました。「命の哲学」としての人間性の肯定―【知・歴・財の所有ではなく、存在の魅力こそが人間の価値である】というわたしの中心思想は、この「生と死」の観念にその源流があります。「既存の制度の中で序列を競うような生き方は、全く生きるに値しない」という思いは、そのような意味での「命の哲学」から来る必然でしょう。
9月5日の第二次往復書簡の最初の書きましたように、認識論の原理中の原理は【直観=体験】であり、実存論の原理中の原理は【欲望】だ、とわたしは考えていますが、この欲望とは「命」の別名だと思います。「命」とは燃えるもの、輪郭線のないもの、不定形なもので、死の確実性とは対極にあります。それゆえにネクロフィリア(死んでいるもの・固定しているものへの愛)の傾向にある人たちが対峙することをひどく恐れるものです。わたしは、日々幼い小学生とも30年間以上交流(授業を越えた授業)をしてきましたが、幼い子ほど初発・初源の「命」の輝きー直接的な生のパワーをもち、大人の固定観念に嵌(は)まらない自由な発想をしますので、彼・彼女らと交わるのは実に悦ばしいことです。
「命」について考えると言えば、地球環境の問題について考えることにもなりますし、生命の誕生という話になれば、特異点からのビックバンに始まる宇宙創生の物語、恒星の誕生―核融合によるFeまでの重い元素の合成と(超)新星爆発によるFe以上の元素の生成、そこで得られた多層な物質による第二次以降の恒星+惑星系の誕生と、危ういバランスを保つ惑星表面でのDNAの生成、40億年以上にわたる幾度の壊滅的な危機を乗り越えての生命の進化―「奇蹟のドラマ」、そのような視点とスケールで対話をするのも楽しいことではありますが、わたしたちは、人間が人間として生きる上でなによりも大事な「生の意味と価値」=恋知=哲学についての考察をしていますので、「命」というテーマを、「人間としていかに生きるか?」「生きることの内実をエロース豊かなものにする条件は何か?」として考えてみたいと思いますが、キムさん、いかかでしょうか?
命の価値への意識が薄らいでいるように見える現代社会の中で、自分がかけがえのない生を営んでいることへの自覚もまた薄らいでいるようです。他の誰とも取り替えられない私の命=生を肯定し、愛することを可能にするための条件とはどのようなものでしょうか?キムさんのお考えをお聞かせ願えれば、と思います。
武田康弘