思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

山脇直司と武田康弘の哲学対話

2009-08-13 | メール・往復書簡

以下は、今日、山脇直司さんの異議に応える形で行われたメールによる哲学対話です。


いろいろな異議—山脇直司

武田さん
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さて私の方、神奈川県庁で60名くらいの自治体職員を前に講演しました。なかなか鋭い質問が出て面白かったです。地方公務員の方が国家公務員よりもずっと自由な雰囲気を感じます。

それで時間的余裕が少しできたので、この際、「あえて」私たちの哲学観の違いを際立たせるのも面白いと思って、武田さんと荒井さんに根源的な質問を「思策の日記のコメント」に書き込みました。

私の考えでは、公共哲学は「哲学の一部」にすぎません。日常経験の延長にない宇宙論や科学哲学も哲学に入ります。その点で(実存主義者の?)武田さんは、あまりにも狭い哲学観に立っていらっしゃるのではないでしょうか。

また荒井さんに私が言いたいのは、中国やシンガポールからの留学生にお二人の民主主義観を押しつけることはできないということです。いったい彼らが生きる文化や歴史の違いをどう考えているのでしょうか。その点で、自分の日常経験を持ちだしたり、ふりまわしたりするのは、ナイーブ過ぎて危険です。それこそ「日本国民」の独断でしょう。

ですから、率直に言って、「思うて学ばざればすなわち危うし」という危ぐをお二人に対して抱く次第です。その点で、竹田青嗣さんの最近の「ヘーゲルの読解に立脚した」議論(ちくま新書)は、精緻な読解と学習に裏打ちされて立派だと思いますが、今まで竹田さんを絶賛していた武田さんが、この本に全く言及しないのはどうしてでしょうか。

以上のこととは別に、私たちはいま『民のための公共哲学』を、約20名の実践現場で活躍中の方々との対談を通して、刊行する企画が進行中です。その対談候補に、武田さんも入れておきますので、その時はこれまでの様々な実践を遠慮なくお話し下さい。まさに公共哲学の主役は「現場で活動する民」ですからーー。

山脇直司
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山脇さん

お応えです。

「公共哲学は「哲学の一部」にすぎません。」(山脇)
は、もちろん、まったくその通りです。

「日常経験の延長にない宇宙論や科学哲学も哲学に入ります。」(山脇)
は、「科学哲学」はそうですが、山脇さんは「宇宙論」も哲学に入れるのですか?
わたしは、小学生の終わりごろから天文学と天体観測に憑かれ、中学・高校時代は、天文学・宇宙論関係の本を読みあさり、友人と宇宙についての会話を毎日のようにしていました。しかし、それは、哲学する上で重要な思考・想像力の訓練ではあっても、哲学だとは考えていません。現代の宇宙論は、カントの太陽系の起源論(星雲説)のようなレベルではないのですし。

「(実存主義者の?)武田さんは、あまりにも狭い哲学観に立っていらっしゃるのではないでしょうか。」(山脇)
哲学は、人間の生の意味と価値を「想う」ことを基盤としてさまざまな問題を「考える」知である限り、ひろい意味では、すべて実存を踏まえた思想だと言えます。それは、狭く自分の感覚、感情、思考に拘り、絶対化することとは全く違います。
実存論(主義ではない)とは、自己のかけがえのない生を踏まえ、主体的に考えるという意味です。

直接経験できない世界の探究は、推論によりますが、それもまた「経験できない経験」として意識=経験されるわけです。

「中国やシンガポールからの留学生にお二人の民主主義観を押しつけることはできないということです」(山脇)
わたしは、現在、中国の清華大学教授になっている方に、10年近く前、哲学と民主主義についてお話しましたが、大変喜んでいました。「武田先生から説明を受け、もやもやしていたものがハッキリしました。原理的なことが分かると、よく現実問題を考えることができます」と。

竹田青嗣さんの本については、相変わらず大変緻密な読み込みで、優れたものだと思います。触れないのは、もうしつこいくらい評価し続けていますし(20年間ずっと)、また、その結論は、言い古されてきたもので(私自身が何十年も前から主張してきたことでもある)、今更?という気がしたからです。

なお、わたしは、竹田さんが、認識論の原理を明晰にしたこと・実存論に立脚して人間と社会についての原理的な論を展開したことを極めて高く評価してきましたが、彼の現実問題への発言や態度に対しては、はじめから評価していません。そこには、深いところでの違いがあるのですが、彼と私との哲学の相違については、また後日。

「思うて学ばざればすなわち危うし」という危ぐを持つ(山脇)
というのは、何を仰りたいのか、意味がわかりませんが。

なお、近代の自然科学誕生後の哲学とは、人間・社会・自然の事象そのものの研究ではなく、個別学問の意味と価値を問うものであり、いわゆる博識とは何の関係もないことを、念のため確認しておきます。

武田康弘
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武田さん

今日はこれから、出かけなければならないので、簡単にお応えします。

宇宙論が哲学にはうるかどうかは、その内容によると思います。カントの純粋理性批判の弁証論にあるような、「宇宙は無限か有限か」という問いは、明らかに現代でも自然哲学的な問いとして有効だと思います。また、物質の根源は何かという問題や、エントロピー、ビックバンの問題も自然哲学の部類に入るでしょう。私はその点で、ホワイトヘッドやハイゼンベルグに大きな興味を抱いています。もっとも、それは科学哲学の一部だと規定してしまえば、それでいいですけどーー。

私がコミットしている社会哲学や公共哲学は、自己の実存的生き方に基づかなければ宙に浮いたものになるという見解は、武田さんと共有します。しかし、自然哲学(科学哲学)が実存に基づかなければならないとまで言うことはできないと思います。

清華大学には私の友人もいますので、今度、タケセン哲学が一党独裁体制の中国社会でどの程度まで実践可能なのか、聞いてみることにします。

竹田さんの最近の主張は、ヘーゲルに拠っていますが、彼の国家論を武田さんは受け容れますか?

「近代の自然科学誕生後の哲学とは、人間・社会・自然の事象そのものの研究ではなく、個別学問の意味と価値を問うものであり、いわゆる博識とは何の関係もないことを、念のため確認しておきます。」(武田)
というお考えの後半部分は賛成しますが、前半部分は何を仰りたいのか判りません。人間とは何か、人間の根源悪とは何か、よき社会をどのようにして作っていくかは、極めて現代的な哲学的問題だと私は思います。

「思うて学ばざればすなわち危うし」という危ぐを持つ(山脇)の件は、ご放念下さい。失礼しました。

ではまた。

山脇直司
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山脇さん

もちろん、自然科学の研究(=その内実)が実存に基づかねばならないのではなく、自然科学のもつ意味や価値を問うことは、実存に基づかざるを得ない、ということです。

各科学の研究は、その意味や価値を問う場面では「哲学」ですが、具体的な研究を行う場面では「科学」(個別学問としての一科学)です。なお、実証性が得難く、推論が多くを占めざるを得ない宇宙論=エントロピー増大や特異点ービッグバンによる宇宙(=物質と空間と時間)の誕生や、量子力学などの分野は、思考力が大いに求められるわけですが、その研究・探求は、人間の生の意味と価値の探求を通奏低音のように持つ哲学とイコールにすることはできません。ギリシャ時代に、自然哲学から離れ、いかに生きるか?また、いかなる考え方が人間の生に豊かな価値をもたらすか?の追求へと舵を切った(発想の大転換)ところに哲学は生まれたのであり、その初心は、現代において「哲学すること」を復権させるためにも必須の条件だ、というのが私の立場です。

ある分野の科学者が同時に哲学者であることは可能ですし、また、哲学者が同時にある分野の科学者であることも可能ですが、これだけ専門分化が高度化すると現実にはなかなか難しいことです。ただ、個別科学の追求者も、それが人間の生や生活についてどのような意味を持つのか?を「想う」ことは必要だ、とは言えます。

山脇さんは、竹田さんのヘーゲルに基づく国家論の何を評価し、また何に疑問をお持ちですか?まず、それをお聞かせ下さい。

武田康弘

コメント (4)
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