思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

なぜ、戦争責任の問題が終わらないのでしょうか?

2009-08-15 | 社会思想
今日は、2009年8月15日ーヒロヒトによる玉音放送から64年


最後まで≪国体(=明治政府がつくった近代天皇制)護持≫にこだわったゆえの言語に絶する悲惨。沖縄戦や東京大空襲や原爆投下という恐ろしい事態を招来するまで、ズルズルと敗戦の決断ができなかったのは、長年にわたる「イデオロギー教育」があったためです。

この【天皇教】と呼ぶべきイデオロギー教育を支えにして、無謀=狂気の戦争へと突入した日本は、その悪しき「国体思想」をいまだに引きずり、自民党政府は、明治政府がつくった新宗教である国家神道(=近代天皇制を支える天皇教)の総本山である【靖国神社】を特別扱いし、公立の慰霊施設を建造せず、64年が経ってしまいました。これでは、平和に生きられる社会の到来を想って死んでいった(死なされた)兵士たちの霊は、いつまでもうかばれません。

市民社会を支える思想である民主制は、自由と平等を基本理念としますが、それと、国体護持という思想は、二律背反であり、根本的に相容れないものです。戦争責任の問題、その核心部分を曖昧にし、戦争や国体思想への批判を「自虐史観」とか「反日」というレッテルを貼って葬ろうとするウヨクの言説は、近代市民社会(民主制)に対する反旗であり、極めて危険な思想ですが、それと通底する歴史観による教科書を採択する東京都教育委員会(石原都知事の意向)の所業には、呆れる同時に強い公共的怒りを持ちます。

日本政府の戦争への謝罪がいつも後ろ向きなのは、戦前のイデオロギーを廃棄する努力に乏しく、自民党の政治家の本音が、最上位に天皇=皇室を頂く国体思想・靖国思想から脱却していないからです。戦争を推し進めた旧支配階級の親族がいまだに「エリート政治家」である日本社会を根本的にチェンジしなければ日本の民主化は果たせません。「戦前レジーム」からの脱却こそが、何よりも先に求められるのです。

政権交代は、そのための必要条件です。

民主的な人間を育てる民主教育―それを支える「自問自答と自由対話」の実践―それによる民主的倫理の育成が急務です。それなくしては、戦争責任と反省の課題は終わらないのです。

武田康弘
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以下は、コメント欄です。

まったくです! (古林 治)
2009-08-15 17:14:44

横浜市内8区でも『新しい歴史教科書』が採択されたとか。
国体思想=反民主思想は死なず。
ええ加減にしろ!ですよ。


先日、NHKの特集で3夜連続で『日本海軍 400時間の証言』なるものを見ました。海軍軍令部(天皇直属組織で大本営を構成する機関)のメンバーによる戦後の未公開反省会の記録です。
その第3回目では、戦争責任を曖昧にする過程がとてもよくわかります。
戦後、軍令部は上層部の責任を回避するよう、命じます。なぜなら、天皇に累が及ぶ可能性があるので(という名目で)、というわけです。東京裁判のために、証人となるであろう人々を呼んで想定問答集を作成し嘘の証言をさせ、場合によっては、下士官に責任を負わせて当人は責任を回避する、というわけです。
その結果、
海軍からは死刑囚はゼロ、悪いのは陸軍、B,C級戦犯に責を負わせる、というわけのわからない歴史が残りました。天皇制を守る、そのためにそれを支えるエリートを守る、そのために人々を犠牲にする。
このおぞましい連鎖は、今の官僚制や大企業を頂点とするピラミッド社会の序列を守ろうとする思想とも通底するように思えます。
国粋主義でなくとも現行の集団体制を維持しようとする保守思想はそのまま国体思想につながってしまうのでしょう。
問題は根深いですが、ええ加減にして欲しいもんです。

ちなみに、『日本海軍 400時間の証言』の再放送は未定です。
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儒教道徳・やましき沈黙 (タケセン)
2009-08-16 00:58:53

最上位者に天皇を置き、上位者に従うという昆虫のような生き方を強要する孔子の儒教道徳の下では、「エリート」とは、自分の地位を守るだけの小賢しい人間にすぎない、ということですね。いまでも上位下達の思想から離れられないわが国は、『やましき沈黙』が支配します。エロース溢れる豊かな人間=主体性をもった手強い個人になりたいものですね。
コメント (2)
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