思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

昨日の対話の続き(荒井達夫・山脇直司・武田康弘)

2009-08-14 | 社会思想
以下は、昨日のつづきです。コメント対話



再度確認です (荒井達夫)
2009-08-13 22:46:06

山脇さん。

直接の体験から得ることのできない知識は、読書や講義から得るしかありませんが、そのような知識についても、「単なる情報の蓄積や交換」にならないようにするためには、その情報に対して自分なりの意味付けが必要でしょう。そうするためには、「自分自身の具体的経験を踏まえ、自分自身の頭で考え、自分自身のことばで語り合う」(タケセン)しかないのではないか、と思います。

単に知識を広げているだけでは、相手が日本人であろうと、外国人であろうと、「ところで、あなた自身は問題に対して具体的にどう考えているのですか」と必ず聞かれるはずです。

なお、私は、山脇さんのような生徒に教える立場にありませんので、それこそ、他人に自分の考えを押し付けることなど不可能です。
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井上ひさしの戯曲 (山脇直司)
2009-08-14 00:05:06

荒井さん
早々の誠実なお返事感謝しています。
お盆休みは取られていますか?
9月からの予想される政権交代で、霞が関がどう変わるか、注目しなければなりませんね。私の方、秋には二つドイツでの授業(市民社会の比較研究)や学会(持続可能な社会のための統合学)があるので、11月過ぎにでも、おちついて一度ゆっくり話し合う機会をもちましょう。

武田さん
公共哲学ではなくて、「哲学」とは何かという重要な問題をともに考える端緒ができたことを嬉しく思います。でも今晩は、公共哲学的な話を一つさせてください。
私は今日の夕方、新宿で井上ひさしの戯曲「兄おとうと」を見てきました。吉野作造と、その10歳下の弟で、岸信介や木戸幸一を部下に持つ高級官僚、吉野信次の反目をコミカルに描いたものでしたが、国家とは国民あってのものと唱える兄(これは私たち三人が共有する見解だと思います)と、国家あっての国民だと信じる弟(これは中曽根康弘などの立場?)がぶつかるセリフが大変面白かったです。井上ひさしは、かつて、公共哲学シリーズを(奇妙なことに?読売新聞書評欄で)絶賛したこともあり、公共哲学にとってますます重要な作家だと改めて認識した次第です。武田さんは、井上ひさしをどう思いますか?
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主権在民 (タケセン=武田康弘)
2009-08-14 13:10:04

山脇さん

吉野作造らの「国家は国民のためにある」は、
主権は、そこに住む人々にあるという「主権在民」を憲法に明記した後の今日では、
歩を進めて、
「国家は市民がつくるもの」とすべきでしょう。
右翼の「国家・命」ではなく、
左翼の「国家・悪」でもなく、
民主制における国家という機構は、市民の自由と人権を守り、共通利益を生むためにのみある。もし、そうでなければ、その国家は「悪」であり、存在理由はない、とすべきです。
「民主制の国家とは、われわれがつくるもの」それがわたしの基本思想ですし、それが日本における『公共哲学』の原点でもあるはずです。

戦後、新憲法をつくるにあたり、主権は国民にあるという主張をしたのは、政党ではただ一つ、共産党だけでした。政府や学者グループもみな、明治憲法の焼き直し程度の考えしかなく、現在の日本国憲法の骨子となったのは、戦前は弾圧され、冷や飯を食わされていた鈴木安蔵ら民間人7人による憲法草案です。天皇は儀礼的存在に過ぎず、主権は国民にある、という理念を明記し、自由と人権を高らかに謳ったのです。われわれの「日本国憲法」の基本思想が、政治家や官僚の権力ではなく、東京帝国大学の権威でもなく、民間人(高野岩三郎は東大教授でしたが、活躍の場は民間でした)の創造であったことは、ほんとうに嬉しいことです。「民」の偉大な力をまざまざと感じます。日本における『公共哲学』は、この事実を、明晰に自覚するところにしか始まらないはずです。また、未だ市民社会が成熟しないアジアの国々に対しても、主権者はあなたであることの自覚を促し、向かうべき先は、市民的な共同体(自由を相互に承認し合うことから生まれるルール社会)であることを明晰にすべきでしょう。

民主制社会の中心者は、権力や権威を持たないふつうの人です。一番偉いのは、天皇でも総理大臣でもキャリア官僚でも東京大学教授でもなく、主権者であるわたしであり、あなたです。われわれの自由と責任でつくる社会、それが民主制の国家なのです。
戦後、「主権在民」の理念が憲法に明記されるまでの凄まじいドラマ、その意味と意義を明晰にする営みが『公共哲学』の不動の原点にならねばならない、そうわたしは確信しています。

恐らく井上ひさしさんも、思いは重なるのではないでしょうか。
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山脇さんの公共哲学って? (荒井達夫)
2009-08-14 22:18:57

山脇さん。

私は、以下の論を公私の区別なく(仕事でも、私生活でも)、強力に展開しています。ですから、当然、機会があれば、井上ひさしさんにも伝えるつもりです。また、「国家あっての国民」という考えは、「公共(国民一般の利益)に反する公(国家の利益)」があって良いと考える金泰昌さんの思想と同じと思いますが、いかがですか? 山脇さんの公共哲学は徹底した民主主義哲学だったはずですが、どうなのでしょうか?


本年6月17日の東京新聞に、「『市民活動が国家変える』 NPO公共哲学研究会 政治学者・金氏が講演」という記事があり、次のように紹介されていました(一部引用)。

韓国延世大学で政治学を学んだ金氏は一九九〇年来日。東大客員研究員などを歴任し、佐々木毅元東大学長(現学習院大教授)とともにシリーズ「公共哲学」(全二十巻、東大出版会)を編集。金氏は「公」と私」を媒介する存在として「公共」をとらえる「公・私・公共」三元論を提唱している。講演で金氏は「徳川幕府は兵営国家、明治政府は官営国家として、民意より官意を優先した。長い間、日本人は国家と個人の間に何事も認めない体制の中で官に従って生きてきた。民主主義の前提である市民の自主性・自発性・当事者性が身についていない」とした上で、「国家と個人の中間にある市民による主体的な活動は、個人を国民として一元化しようとする国家の在り方をより多元的に開かれたものに変えていくものだ」と語った。


金泰昌氏の「公・私・公共」三元論は、東大出版会の「シリーズ公共哲学」の編集方針とされたことから、学問としての公共哲学の通説のように見られていましたが、平成20年1月22日に参議院調査室の主催で行われたパネルディスカッション「公共哲学と公務員倫理」で、哲学思想として重大な問題があることが明らかになりました(『立法と調査』別冊2008.2参照)。重大な問題とは、金氏の三元論が憲法の「主権在民」の原理に反するということです。金氏の思想の特徴は、「公」(=国家の利益)と「公共」(=国民一般の利益)を明確に区別するとともに、「公共に反する公」があって良いと考えるところにあります。また、その主張は、「主権は国民に帰属しているが、天皇に寄託され、天皇が行使する」との憲法解釈を伴っています。このような論がディスカッションで繰り返されたことから、私は、「金氏の思想を行政運営の基礎とすることはできない」と断言しています(「公共哲学と公務員倫理」『立法と調査』279号」参照)。
日本国憲法下の公務員は、「天皇の官吏」ではなく、「国民全体の奉仕者として、公共の利益のために勤務しなければならない」からです(憲法第15条第2項、国家公務員法第96条第1項)。公務員が職務を遂行する上で最も重要であるのは、「主権が国民に存する」(憲法前文・第1条)との意識を明晰に持ち、その原理の実現に努力することであり、その意味で、金氏と正反対の思想で仕事をしなければならないはずなのです。
シリーズ「公共哲学」も、このような観点から議論されなければならないと思います。

補足です (荒井達夫)
2009-08-16 08:17:27

山脇さん。

「公共に反する公」があって良いと考え、「主権は国民に帰属しているが、天皇に寄託され、天皇が行使する」と憲法を解釈する。

このような思想を「シリーズ公共哲学」の中心軸に置いたことの意味を、参加した学者達自ら問い、公に議論する必要があります。そうでなければ、これらの学者達は「やましき沈黙」に陥り、学問としての公共哲学の明日はないと私は考えています。

思想信条の自由・学問の自由と、政治行政への影響・発言の社会的責任について、真剣に考えれば、黙っているという選択肢はないと思いますが、いかがですか。
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公共精神は複数性の世界です! (山脇直司)
2009-08-25 12:14:06

東大出版会のシリーズは、様々な立場の人が論争し合うことを趣旨とするもので、それ以上のものではありません。もちろん、私は「徹底した民主主義かつ共和主義」の立場をとりますが、それ以外の見解の人を締め出すことはできないのです。それが「複数性を前提とする公共=パブリック」の精神です。それに対して、荒井さんのメンタリティーがよく示しているように「公=オフィシャル」は単数形の世界です。単数の答えを求める精神構造ほど、複数的な公共の精神に反しているものはなく、これを今度、公にしていきたいと思います。
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わかりやすく説明します (荒井達夫)
2009-08-25 21:19:25

山脇さん。

私の話が理解されていないようですので、以下、再度、わかりやすく説明し、お聞きします。

金泰昌さんは、「公共(国民一般の利益)に反する公(国家の利益)があって良い」と考え、「主権は国民に帰属しているが、天皇に寄託され、天皇が行使する」と憲法を解釈しています。

私は、主権在民の今の日本で、これほど反公共的な(国民の利益に反する)思想はないと考えています。

だから、そのような思想では「行政の運営はできない」と言っているのです。行政とは法律の執行のことであり、憲法の基本原理に反する法執行はあり得ないからです。

さらに、このような思想を東大出版会という最高学府による書籍のシリーズ「公共哲学全20巻」の中心軸に置いたことの意味を問うているのです。

(金さんの思想・信条・言論表現の自由を否定しているのではありません。)

そこで、再度、お聞きします。

山脇さんは、金さんのような思想で「行政運営をして良い」とお考えですか。(これが、議論のポイントです。)

もし、「良い」というお答えであれば、山脇さんの公共哲学も行政運営には使えない、ということになろうかと思います。

いかがでしょうか。

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間違いの訂正が何より大切 (タケセン=武田康弘)
2009-08-26 00:57:26

山脇さん、荒井さん

まず、東京大学出版局から出された20巻に及ぶシリーズ「公共哲学」には、編集方針として、「従来の公と私という二元論ではなく、公と私を媒介する論理として公共を考える」と明記されていますが、このような「公共」の捉え方は、金泰昌さんとわたし・武田康弘との長く厳しい論争により、破綻しました。したがって、未だにこの三元論を固持する方以外は、「それは公共哲学の基本思想ではない」ということを明言=文書化する必要があると思います。間違いや不備を認めることは少しも恥ずかしいことではなく、曖昧化し・なし崩しに変えてしまうのが罪なのです。正直で、率直な態度は気持ちのよいものです。

また、「官」の世界の現実は、まさしく公と公共を分離し、市民的・国民的「公共」とは異なる国家の「公」がある、という不孫な思い込みの上に成立しているわけですが、こういう三元論的な発想は、主権在民の民主主義の原理に反します。官僚は、徹底した自己批判・自己反省の上に、「日本国憲法」の理念に則って、「官は、市民・国民の公共実現のためにのみ存在する」という原理をしっかり身につけなくてはなりません。ここでも、率直な謝罪が必要であることは、当然です。

武田康弘

コメント (4)
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