思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

生と哲学の原理

2009-08-20 | 恋知(哲学)
哲学次元において問題性をはらんでいると、いかに表層のイデオロギーとして「よい」ことを主張しても、必ず困った結果=現実を導きます。

いま流行りの「人間の関係性をよくし、仲よくするためには」の追求を哲学の中心にしてしまうと、結局は、仲間主義へと陥っていくものです。「そうなればよい」という結果=イデオロギーを先に置き、それを哲学の出発点にするのは、哲学(原理的思考)としては、失格なのです。

関係性をよくしよう、という目的を先立てると、何がほんとうか?の追求が二の次になります。その結果、周りに気を遣い、他者の評価ばかりを気にする脆弱な精神を生みます。それでは、生き生きと生きることができず、人間の生は輝きません。現代はそんな哲学しかなく、みんな平均人・一般人に陥っています。哲学が、現状を超えるイマジネーションや意味の濃い実存と符合するのではなく、既成社会・既成言語の枠内で上手に生きるだけのアイテムになれば、存在理由・価値は元から消えてしまいます。

人間が互いに違うのは「事実」であり、ほんらい誰しもが「わたしはわたしの声を出す」(武者小路実篤)以外にないはずです。異なるさまざまな主観につき、それを是認し、それを面白がり、それを貴重なものと見る、それが「よく生きる」ための原理です。

だから、仲よくする、ではなく、仲よくなる、でなくては困ります。仲よく、は、目的ではなく、結果にすぎません。仲よくしなくてもいいのです。無理に仲よくする必要などありません。

「人間関係をよくしよう」と考えると、無理をすることになり、却って、大きな齟齬を生み、仲間主義(=いろいろ理窟をつけて他者を排除する)へと堕ちて行きます。思考も生も、内輪を巡るだけになり、「空気を読む」だけの貧相な人生しか与えられません。自他に細かくチェックを入れる小人になれば、生の豊かなエロースは消えます。

「関係性のよさ」という浅い次元を哲学の原理とするのでは、哲学にはなりません。わたしは、哲学とは【人間性への信頼】を原理とするものと考えています。軋轢、闘争、相剋・・・は大事なのです。余裕をもってケンカできる豊かな精神、強靭な精神が必要ですが、それは、「人間を肯定し信頼する気持ち」が支えます。他者の評価に怯えるのではなく、もっと、自分自身の主観性のよさ・面白さに目覚め、自分として生きることが大事ですが、それを可能にする条件は、「自他の存在の肯定=人間への信頼」です。時には、裏切られることもありますが、自他を信用・信頼し、前向きに現状打開的に強く生きる方が、結局は得なのです。発想を根本的に変え、「関係性の哲学」(仲よく)から、「信頼の哲学」(前向き)へ次元を上げることが必要です。もう少し正確に言えば、「人間性への信頼」という深い次元を踏まえ、そこを足場にしなければ、「関係性の哲学」は成立しないということです。

この課題を果たすには、子育て・教育が鍵となります。大人の言うことを聞くから愛するのではなく、子どもの存在自体を無条件で愛する=肯定するという生物としての自然性を取り戻すことが必要です。人間は(他の生物もですが)、何かのために生きるのではなく、よく生きること自体が価値なのですから。こどもが、自分を肯定し、愛することができるような子育て・教育は、究極かつ絶対の原理です。【人間性への信頼】や【素直な自己肯定】は、よく愛されることで生じるのです。何よりも大切なのは、心身全体による愛です。


「よく生きる」の「よい」とは?

ブログを開始した2004年11月19日に『よい』(最大のイデア)について、書きましたので、以下にコピーします。


『よい』(最大のイデア)とは?


『よい』とは、「かたまじめな善」のことではありません。

生き生きとしていること、輝いていること、しなやかなこと、みずみずしいこと、溌剌(はつらつ)としていること、高揚感(こうようかん)のあること、自由なこと、愉快なこと、・・・

を指します。


こうした『よい』は、「エロース」にもと基(もと)づくものであり、「アガペー」からは出てきません。

神への愛という飛躍(ひやく)=「反自然」ではなく、具体的経験=生活世界の只中(ただなか)に「真善美」を見ようとする繊細にして強靭(きょうじん)な心=健康で人間性豊かな心がつくりだすものです。


武田康弘
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以下は、コメント欄です。

もっと対話が進めば・・・ (古林 治) 2009-08-24 22:34:45

『哲学とは【人間性への信頼】を原理とするもの』
『余裕をもってケンカできる豊かな精神、強靭な精神が必要ですが、それは、「人間を肯定し信頼する気持ち」が支えます。』

う~む、身近に日常の武田さんの言動 ‐小さな子供からエライ学者さんまで誰が相手でも変わらず、決して自ら関係を絶つことなく対話し続けようとする姿勢、行為‐ を見聞きしているから私にはスッと入り込んできます。

が、それを知らない人には一度この文章を読んだだけでは中々入ってこないかもしれません。

ひとつには、【人間性への信頼】も【素直な自己肯定】も過去のビッグネームの哲学者の本には出てこないからでしょう(笑)。思想、哲学の輸入だけではこうした発想は出ませんよね。自分の頭と体で考えなくっちゃ。

それはともかく、いろんな人との議論、対話があるともっとわかりやすくなるでしょう。
山脇さんあたりから突込みがあったりすると、グッと議論が深まって面白くなるにちがいありません。
そこに関係性のエロスを基盤とする竹田青嗣さんが議論に加わったりすると、【人間性への信頼】も【素直な自己肯定】も立体的に浮き上がってきて面白くなると思うんですけどねえ。参加してくれないかなあ。
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(以下は、mixiブログ内のコメントです。)


フリーデン 2009年08月25日 15:13

フリーデンです。
今、私用に追われる毎日です。
とりあえず、お応えしておきます。
思想史研究の場合に、過去のビッグネームを使うときは、どこまでも「人類の知的遺産」を正確に伝えるというモチーフで持ち出すことが多いです。それに対して、市民が「哲学する」という場合に、もしビッグネームを持ち出すとしたら、どこまでも「補助的な刺激剤」として、その人の見解に(何%?)同意するのか、反対するのか、それとも不可解として退けるのか、などを問う形で持ち出すのが適切と考えています。ビッグネームとして現在残っている以上、それが我々の生活に何らかの関係(もちろん反面教師も含めて)があるでしょうからーー。
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タケセン 2009年08月27日 10:05

フリーデンさん

古林さんのコメントは、
武田の積極的主張である『哲学とは【人間性への信頼】を原理とするもの』 (ブログ記事『生と哲学の原理』)への突っ込みがあるといいですね、というものですが、
フリーデンさんの「お応え」は、それとは無関係なものになっているために、議論ができません。
お時間のあるときに、再コメントをお願いします。
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フリーデン 2009年08月27日 11:30

どうも失礼しました。
古林さんの後半にあるビッグネームをどう理解・利用したらよいかに話がずれてしまいました。
哲学が「人間性への信頼」を原理とすること自体に、反対はしません。これは「他者」をどう理解するかということと、「存在の絶対的肯定の根拠」をどこに置くかという根源的問題と密接に関連すると私は思っています。
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タケセン 2009年08月27日 21:09

フリーデンさん

存在の絶対的肯定の根拠」は、すでに『生と哲学の原理』の最後に書きましたように、
「無条件に愛されている」という実感です。心身全体で子ども愛する子育てが、人間存在にゆるぎない肯定感と安定を与えます。
日々、充分に触れ合いながら、身振り言語を交えた対話を交わすことが核心です。

それが、

観念的・言語的に留まらない、全身的な他者理解=了解を生みます。他者を知的に理解しようとするのは愚かな行為であり、さまざまなレベルの交流で「他者存在を会得」するのがホントウです。それを可能にするのが前記の「愛」です。

この続きは、「コメントへのお応え」を見てください(クリック)


コメント (2)
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