思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

間違いの訂正が何より大切ー山脇直司さん、荒井達夫さんへのコメント

2009-08-26 | 社会思想

以下は、「荒井達夫・山脇直司・武田康弘の対話」へのコメントにお応えしたものです。単独で記事にします。


山脇さん、荒井さん

まず、東京大学出版会から出された20巻に及ぶシリーズ「公共哲学」には、編集方針として、「従来の公と私という二元論ではなく、公と私を媒介する論理として公共を考える」と明記されていますが、このような「公共」の捉え方は、金泰昌さんとわたし・武田康弘との長く厳しい論争により、破綻しました。したがって、未だにこの三元論を固持する方以外は、「それは公共哲学の基本思想ではない」ということを明言=文書化する必要があると思います。間違いや不備を認めることは少しも恥ずかしいことではなく、曖昧化し・なし崩しに変えてしまうのが罪なのです。正直で、率直な態度は気持ちのよいものです。

また、「官」の世界の現実は、まさしく公と公共を分離し、市民的・国民的「公共」とは異なる国家の「公」がある、という不孫な思い込みの上に成立しているわけですが、こういう三元論的な発想は、主権在民の民主主義の原理に反します。官僚は、徹底した自己批判・自己反省の上に、「日本国憲法」の理念に則って、「官は、市民・国民の公共実現のためにのみ存在する」という原理をしっかり身につけなくてはなりません。ここでも、率直な謝罪が必要であることは、当然です。

武田康弘
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以下は、コメント欄です。


破綻はしていないと思いますよ! (山脇直司)
2009-08-26 01:31:31

残念ながら、今日のタケセンさんの自負には同意できかねます。「公と私を媒介する論理としての公共」という表現は、金泰昌さんのもので山脇のものではないのですが、「意見の複数性」が常に担保されなければならない「公共(空間)の担い手」を「私から成る公衆(the public)」としてとらえ、「政府(官)の公的活動(守秘義務をも含む一義的活動)の正当性の根拠」をそうした公共空間での世論(パブリック・オピニオン)と考えれば、金泰昌さんの考えは、それなりに成り立つと私は思います。謝罪を求めるなどは、見解の複数性を認めない権威主義者の言うことではないでしょうか!
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議論をごまかしてはダメです (荒井達夫)
2009-08-26 06:22:36

山脇さん。

「公共(国民一般の利益)に反する公(国家の利益)があって良い」と考え、「主権は国民に帰属しているが、天皇に寄託され、天皇が行使する」と憲法を解釈する。

この妥当性が、「公・私・公共三元論」に関する武田・金論争の核心であり、私が問題にしているところです。

議論をごまかしてはダメです。
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「民主主義的、非ルソー的、共和主義的な三元論」宣言 (山脇直司)
2009-08-26 06:38:52

上の続きです。この一連の討論に私なりに参加して到達した結論をはっきり申し上げましょう。それはタケセンさんや荒井さんが強調する三元論の破たんでは全くありません。また、金泰昌さんの考えとも違います。逆に、民の公共(The public-common of people、何度も言いますがそれは複数性が担保される世界です)と政府の公(The official、そこは一義的な活動が要求される世界で、複数性は担保さません)を区別しつつ、前者が後者をコントロールし方向づけるという「民主主義的な三元論=公共思想、」であり、また、私有財産や個人情報などの私的領域が公共的に保障される「非ルソー的な三元論」です。そしてそれはまた、「民の公共活動」と「税金によって賄われ、一義的で公式的な態度が常に要求される(地方、中央)政府の公活動」、および「私的領域」とが協働のガバナンス(共治)を行うことによって、レス・プブリカ(公共社会)を創っていく「共和主義的な三元論」でもあります。ですから、どのような三元論かをあらかじめ規定しないでおいて、三元論を否定するのは、まことにナンセンスで、非哲学的な思考と言わなければばらないと思います。
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議論を突き詰めないのは荒井さんの方ですよ (山脇直司)
2009-08-26 06:49:14
荒井さんの言っていることは、あまりにも当然のことなので、コメントはしません。議論をゴマ化しているのは、原理的なことを突き詰めずに、「参議院の公務員」という「実にちっぽけな世界」だけで、公共哲学を論じようとする荒井さんの方です。
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公共的観点に立てば、 (タケセン=武田康弘)
2009-08-26 10:56:55

山脇さん

私的ではなく、公共的な観点に立てば、
大きなシリーズの書物に明記されている編集の基本方針は、その内容と密接に関係するものと見られて当然です。
そのシリーズの書物を編んだ最高責任者として名前が記載され(全20巻すべてに共通する編集責任者は、金泰昌さんだけです)、実際上も中心的役割を担った人の言説を、「公共哲学」の三元論的な観点の中心とみるのは、極めて当然の話ではないでしょうか?ふつうの読者なら、誰でもそう思うはずです。

それに対する議論で、「一つの決着をみた」(もちろん「絶対的な真理」などではありません)のは、その議論に参加した人の共通認識だと思います。それは、特定の考えを強要するというのではなく、【現実に民主主義の政治を進めるための基本】を確認したというレベルの話に過ぎません(少なくとも日本においては、「主権在民」の原理を徹底することが必要だということ。そのためには、官僚は、市民的・国民的公共を実現させるためにのみ働き、公共の利益とは異なる国家の公という領域をもってはならぬこと。)

わたしは、公共哲学の複数性の否定など全く考えていません。山脇さんは、何か次元の違う話を一緒にして語られているようです。ゆっくり語り合えば、齟齬は消えると思います。ただ間違いなく言えるのは、「公と公共の区分けが必要だ」という金泰昌さんの強い言動によって、シリーズ全体のイメージが形成されたことです。少なくとも、それを訂正する作業にはしっかりと取り組まなければならないはずです。それは人間の良心の問題ではないでしょうか。
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全巻の内容を検証する必要 (山脇直司)
2009-08-26 12:29:19

武田さん、金泰昌さんが全巻の編者となっていることは事実ですが、私を含めた参加者は、金さんの見解に同意して参加したわけでもないし、第3巻の井上達夫東大教授や第12巻の長谷部教授のように、真っ向から金さんの見解に反対し激論を交わしているので、それらを読んでから、批判しないと、公正さを欠くと私は思います。いずれにせよ、金さんの見解を基に編集されたというのなら、それに反対する人は参加していないはずです。その点、タケセンさんは、事実誤認していませんか?

編者とは何か? (山脇直司)
2009-08-26 13:13:33

もう一言付け加えます。編者とは何かという問題も、私が今まで経験する限り、自明の理ではありません。現代の編者はどこまでもコーディネーターとしての役割を演じるのであって、いわんやボス的存在ではなく、反対する見解の持ち主も進んで参加させる度量をもっていなければ成り立ちません。どうやら、編者観に関しても私たちに認識の違いがあるようですね。ともかく、日本ではほとんど影響力を持たない金さんではなく、上記の影響力ある二人の東大の学者の見解と対峙してみてください。
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一般読者の自然な見方は、 (タケセン=武田康弘)
2009-08-26 19:47:31

どのような思想や哲学や宗教、あるいは個別または学際的学問であっても、それが「どのようなものであるか」?についての概念やイメージが存在します。ふつうの多くの人々による自然な合意として。

例えば、「キリスト教」についての概念は、相当に異なる内容をもつ種々の福音書のすべてを読むことによって得られるのではなく(もしそうならば、キリスト教について語り得るのは、数えられるほどの少数者だけになります)、特に熱心なキリスト者たちが示す言動を見聞きしてのことです。

「マルクス主義」などの社会思想についても同じです。異なる主張をもつマルクス主義者たちの言説をすべて追うことによって(職業にしない限り不可能です)ではなく、中心的な思想家や活動家の言動を見聞きすることで、それらについての概念を持つわけです。

「公共哲学」についても同じです。一番熱心にその運動を担い、一番積極的に発言し、行動していた人、それが金泰昌さんであることに異論を挟む人はいないでしょう。その人の唱える思想が社会的影響を持つのは、当然です。したがって、彼の言う「公と公共の区分け」という主張が、東大出版会の進めた「公共哲学」の中心にあると見るのは極めて自然なことです。そうでない主張も「公共哲学」の中にあるのは、わたしも十分に知っていますが、全体を通して、金さんの言う三元的な見方が支配的であることは否定し難いのです。

最後に質問ですが、コメント欄にある山脇さんの【金さんとは異なる三元論】は、いつ、どこで発表されたのですか?わたしは、それが書かれた本を知りませんし、お話として聞いてもいませんので。
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シリーズ公共哲学の根本的見直しが必要 (荒井達夫)
2009-08-26 21:38:23

山脇さん。

「荒井さんの言っていることは、あまりにも当然のこと」という山脇さんの発言ですが、

私は、キャリアシステムなど現実具体の「官」の問題に取り組む中で、主権在民の原理を徹底して考えた結果、この「あまりにも当然のこと」に行き着いたのです。

それはともかく、「金泰昌さんの三元論の思想は、主権在民の原理に反する。だから、行政運営には使えない」ということを、東大教授である山脇さんが、今回、「はじめて、公に」認めたわけですから、この点については大きな進歩であると思っています。

ただし、そうなると、当然、シリーズ公共哲学(東大出版会)の根本的見直しが必要であることを認めざるを得ないでしょう。

金さんの三元論は、シリーズ公共哲学の「編集方針の重要な柱」であり、それに関する武田・金論争が公務運営上も重大な問題があるとして、参議院でのパネルディスカッション「公共哲学と公務員倫理」が行われたわけですから、これは全然気楽な話ではないのです。(人事院の関係部局の幹部のほとんどが聴きに来たのは、そのためです。山脇さんも十分にご承知のことと思いますが。)

なお、山脇さんの「到達した結論」(=金さんと異なる三元論)については、私も、今回、はじめて聞きました。これは、これで検討が必要ですが、とにかく、急にこのような話を持ち出して人を批判するのは、いかがなものかと思います。
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シリーズの基本方針は? (タケセン=武田康弘)
2009-08-27 15:07:32

山脇さん

議論が錯綜するのを避けるために、ひとつ、基本的なことをお尋ねします。

東大出版会のシリーズ『公共哲学』には、四つの編集方針が、全巻の裏表紙に書かれていますが、あれは、編者のみなさん(山脇さんも編集委員ですね)の合意ではないのですか?

当然、読者が見れば、その方針の下につくられたシリーズだと思いますが。
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お応え (山脇直司)
2009-08-27 16:56:43

お応えします。私は編者ではなく、編集委員の一人にすぎませんが、1の活私開公の強調、3の公共性の担い手、4のグローカルに関しては、私が責任を持ちうる思想です。しかし2の公私媒介としての公共性という考えは、編者の金氏の考えであり、責任を持てません。

荒井氏へ (山脇直司)
2009-08-27 17:00:42

私の三元論は急に出したわけではありません。他の私の論文を読みもせず、金氏だけの話を聞いて、三元論は駄目だ駄目だと権威主義的に言い続けるなら、私は「一人の市民として」「官僚である貴方」に論争を挑むでしょう。
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更に確認です。 (タケセン=武田康弘)
2009-08-27 18:24:42

山脇さん

了解です。編集方針と記載されていても、それは、編集委員みなさんの合意ではないと言うことですね。やはり、金泰昌さんの意見なのでしょうか?

また、ご存知のように、わたしが問題にし、月刊『公共的良識人』紙において論争(哲学往復書簡)となったのは、金泰昌さんの【公と公共の区分けを要諦とする三元論(私・公共・公を三次元的に捉える)】です。

三元論的なものの見方一般を否定したのはありません。念のため。

コメント (19)
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