思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

公共哲学論争ー3

2009-08-30 | 社会思想
また、字数オーバーのため、新たなブログとします。
ただし、話が分かりにくくなるので、一部重複させて出します。


「当然」の掘り下げが哲学 (タケセン=武田康弘)
2009-08-28 15:41:43

「倫理」は、人間のあらゆる営みの基底にあるものです。民主制社会に生きる人間は、民主的倫理を身につけることが求められます。わたしは、ブログ『民主的倫理』に、「端緒を明らかにし、経緯を明らかにし、結果を明らかにし、それに関わる人を明らかにする、こういう民主的言動が民主的倫理を生むのです」と書きましたが、「公共哲学」を論じるにも、このことを踏まえなければ、その議論は不毛なものにしかなりません。
正直に事実を話し、端緒と経緯と結果について、正確な情報を開示する。これは、民主主義を立場とするわれわれ三人に共通する基本ルール=倫理だと思います。

それを確認した上で、[主権在民]の話に戻ります。

1947年に文部省が発行した『新しい憲法のはなし』で、

「・・・そうすると、国民ぜんたいがいちばんえらいといわなければなりません。国を治めてゆく力のことを「主権」といいますが、この力が国民ぜんたいにあれば、これを「主権は国民にある」といいます。こんどの憲法は、いま申しましたように、民主主義を根本の考えとしていますから、主権はとうぜん日本国民にあるわけです。そこで前文の中にも、また憲法の第1条にも、「主権が国民に存する」とはっきりかいてあるのです。主権が国民にあることを、「主権在民」といいます。あたらしい憲法は主権在民の考えでできていますから、主権在民主義の憲法であるということになるのです。」

と説明されて以来、「主権在民」は、小学校で習い、誰でもが言葉としては知っているわけです。

ところが、それは、現実の政治においては形骸化してしまい、、官府が民の上に立ち、まるで政治家や官僚が主権者のように振る舞っています。

また、「公共哲学」の推進者のお一人、学習院大学法学部の桂木隆夫さん(法哲学と公共哲学を担当)の『公共哲学とはなんだろう』(けいそう書房・2005年9月刊)では、21世紀のあるべき民主主義の姿として、大衆の中の「エリート」とそれとは区別された「エリート」の育成が必要だ、と結論づけていますが、こういう公共哲学は、主権在民の徹底という私の基本思想とは違うと思いますが、山脇さん、いかかですか?
  
それどころか、「公共哲学」の最大の推進者=山脇さんの話では、東大出版会のシリーズ『公共哲学』の4つの編集基本方針を一人で決めた(その実力をもった)金泰昌さんの公式発言(参議院での討論)に見られるように、現在の日本国憲法下でも、「日本国の主権は、天皇に寄託されている」と言われます。また、「天皇の官吏から国民全体の奉仕者へというのは、今の日本国憲法から見ると同じことだ。余り変わっていない。」
とも主張されています。

民主主義の根幹=「主権在民」という言葉の表層の意味は、小学生でも知っているわけですが、その意味と価値を明晰に意識し、掘り下げ、そこからさまざまな現実問題を捉え、変えていく営みが何よりも大切だという私の思想・判断は、上記の現実があるからです。

一見「当たり前」と思われている言葉・概念・思想の大元=根拠を探ることで、新たな世界を切り開く営み=頭の使い方を「哲学する」と言う。新奇な造語をつくることや、多くの概念語を横並びに広げることは、理論趣味や衒学趣味という世界であり、ほんらいの哲学とは何の関係もない。わたしは、強くそう思っていますが、山脇さん、荒井さんはどう思われますか?
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ラウンドを改めて議論しましょう (山脇直司)
2009-08-28 18:32:58

武田さん
重要な問題提起を有り難うございます。「当然」の掘り下げが哲学だとのご意見は、私にとっては、当然のこと=自明の理です。
ご質問に、すべてお応えしたいのですが、当方、来週から約一週間行われる国連大学グローバルセミナーの委員を務めているため、準備を含めて、時間をそれに当てなければなりません。それが終わってから、別なラウンドを設けて、再開しましょう。基本的にヒューム主義者である桂木さんのことはよくわかりませんが、千葉大学の小林正弥さんにも、議論に加わって頂いたらどうでしょうか。
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了解。 (タケセン=武田康弘)
2009-08-28 21:46:28

山脇さん
了解です。楽しみに。
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一言 (青木里佳)
2009-08-29 08:36:48

今までの山脇さんと荒井さんのやり取りを読ませて頂いてましたが、ちょっと一
言失礼します。

山脇さんの「実にちっぽけな世界」という表現は、感情的になって書いただけだ
と思いますが、上から見下す傲慢な響きがありますね。
意見として言う・討論として述べるという道から脱線して、ただ相手を攻撃して
負かせようとしている子供のような言動にしか見えません。
山脇さんの説明も読んでいると、何が言いたいのかわからなくなってきます。
専門的な言葉(しかも英語に訳したものまである)や論点とは違う話が
だーっと並べられていて混乱してきます。
例えて言うなら、刀や手裏剣をバンバン投げてきて、最後には煙を巻いてドロン
と消えようとしている忍者のような感じでしょうか。(笑)
残された方としては「なんだったんだ!?」と唖然とするのと、まともに相手して呆れたという気持ちでしょう。
もっとシンプルに、冷静になって書き込んで欲しいと思います。
あーだこーだと言葉ばかりを並べて、まとまりがないと言い訳にしか聞こえなく
なってくる気がします。
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哲学とは己を知ること (タケセン=武田康弘)
2009-08-29 12:11:44

「哲学とは自分自身を知ること」とは、よく知られた格言ですが、タレスも言うように、この世でこれほど難しいことはないようです。
もちろん、わたし自身を含めて、立場上、人の上にたつ仕事をしている人(とりわけ社会的地位の高い人)は、たえず己を顧みると同時に、厳しい批判を浴びる「場」に進んで身を置くことが求められると思います。
他者の批判を受け入れ、己を変える努力を怠れば、哲学=恋知とは無縁な存在となってしまいますから。わたしは、子供たちからメタメタに(笑)批判され続けて34年目ですが、まだまだ修行が足りない!と思っています。

それから、山脇さん、
「桂木さんのことはよくわかりませんが、」とありますが、山脇さんは桂木さんの『公共哲学とはなんだろう』(けいそう書房)への長文の書評を書かれていますね。
わたしも金泰昌さんからの依頼で同書に対する書評を書きましたが。http://www.shirakaba.gr.jp/minchi/library/library20.htm
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公共哲学とは何だろう (荒井達夫)
2009-08-29 13:37:22

桂木隆夫さんの、大衆の中の「エリート」とそれとは区別された「エリート」の育成、という考え方は、現在の国家公務員制度改革における「スーパーキャリア」の議論を思い出させます。法的根拠のない単なる人事慣行であるキャリアシステムが特権的意識を醸成し、非民主的と批判され、その廃止が求められている中で、法律で現行の「ノンキャリア・キャリア」の上に、さらに「スーパーキャリア」を創ったらどうか、という議論です。主権在民の思想では、理念上、特権者を認めないはずですが、ここでは完全に単なるお題目に過ぎなくなっています。

桂木さんの思想は、金泰昌さんの三元論の思想よりも、さらに非民主的度合いが強いと言えるかもしれません。金さんの思想の強烈な非民主性は、一見ではわからず、長い武田・金論争の中で暴露され、参議院でのディスカッションで確認されることになったのですが、桂木さんの方は、一見して強烈な非民主的思想と思えるからです。

主権在民の原理を現実問題の中で常に追求する姿勢がないと、単なる特権者である官僚と、職業公務員として高いプライドを持って職務を遂行する幹部職員の区別もできなくなってしまいます。桂木さんの思想では、その危険性を感じます。とにかく高度な専門知識を身に付ければ、社会の在り方について正しく判断できる優れた人間になる、というような思い込みがあるように思うのです。戦前の高等文官試験につながる思想であるようにも感じられます。

1947年文部省発行の「新しい憲法のはなし」にあるように、主権在民の国家では、「国民ぜんたいがいちばんえらい」のですから、社会の在り方は一部少数のエリートが決めるのではなく、国民の一人一人が「全国民に共通する社会一般の利益とは何か」を対話と討論する中で決定していく、ということを基本の思想にしなければならないと考えます。

桂木さんのような思想が公共哲学の基本書の中で、21世紀のあるべき民主主義の姿として語られること自体、私には不思議です。思想・良心・言論・表現の自由があり、公共哲学もいろいろあって結構と思います。ですが、公務に関する限り、桂木さんの思想は、金さんの思想と同様、到底使えないものと言わざるを得ません。主権は国民にあり、公務員は憲法を遵守する義務があるのですから、主権在民の原理の徹底は、公務員倫理の土台中の土台なのです。
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再来週以降に。 (タケセン=武田康弘)
2009-08-29 15:42:34

わたしの問題提起(桂木さんの「公共哲学」も含む)に対する対話は、山脇さんが、「国連大学グローバルセミナー」を終えた後、再来週以降にしましょう。今後の公共哲学・公共思想のために有意義な議論ができるよう、皆で努力しましょう。
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主権在民に立脚した役に立つ公共哲学を目指して (荒井達夫)
2009-08-29 22:58:06

青木さん。

「専門的な言葉(しかも英語に訳したものまである)や論点とは違う話がだーっと並べられていて混乱してきます。」、「あーだこーだと言葉ばかりを並べて、まとまりがないと言い訳にしか聞こえなくなってくる気がします。」(青木さん)

このような議論の仕方では、特に肝心の点について、やり取りが本質に迫ることができず、ただの時間の無駄にしかなりません。

ですから、今後は、常に論点を確認しつつ、現実的具体的な問題を例に、普通の平易な言葉で説明してもらうようにしたいと考えています。もちろん、私自身も、そのように努力します。そうでなければ、実践的で真に有用な公共哲学は実現できませんので。

専門用語、カタカナ英語、勝手な造語などをやたらと並べるだけでは、現実問題にはまったく役に立ちません。そのことを特に強調して、議論を進めていきたいと考えています。

主権在民に立脚した役に立つ公共哲学を目指して。
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ごめんなさい (山脇直司)
2009-08-30 01:15:11

青木さん
私から見て、荒井さんの方が私より偉い立場(国家公務員)のように感じて、書いたのですが、第三者からみて、逆に私の発言が上からの目線で書いているように受け取られたことは、私の責任です。弁解は致しません。
私が言いたかったポイントは、複数の異なる意見があって初めて成り立つ(論争的な?)公共的議論が、一義的な答えや行動が常に求められる(窮屈な?)公務員の世界で可能なのかどうかということです。大学のゼミでは、教員といえども、間違ったことを話せば、学生から集中砲火を浴びます。そしてそれに反論できなければ、教員は自らの非を認めなければなりません。その意味で沈黙は美徳では全くありません。
ちなみに私は、日本人の教員から哲学を学んだことは一度もなく、反論を奨励する非日本人教師から哲学することを学びました。「論争なくして哲学なし!」。おそらくその点で、武田さんと気が合うのだろうと思います。では、100人の大学生(私立大学生が圧倒的に多いです)、大学院生、社会人が徹夜で討論する国連大学セミナーの「論争仕掛け人」のために、出かけきます。
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公務員の世界にこそ (タケセン=武田康弘)
2009-08-30 12:30:27

率直な山脇さんの言葉、とても爽やかで好感です。

≪哲学的思索≫と≪見世物≫とは違いますから(笑・失礼)。

わたしは、山脇さんの見方とは反対で、公務員の世界こそ≪公共哲学的複数的思考≫が必要だと思っています。

何をどうすることが全体の利益になるのか?多様な市民の生活から「妥当」を導くためには、大学内における議論以上に、広くかつ厳しい討論が必要なはずです。

しかし現実は、【官】を「公」という領域と見、市民的「公共」性を実現するためにのみ存在する機関だという認識が弱いため(公と公共を分ける「三元論」は、この歪んだ現実を追認する弱い思想でしかありません)、市民の利益・公共性を支え、担う役目を負った公務員の世界を、一元的な国家主義と看做すことになるわけです。

最後にはひとつの「結論」を出さざるを得ない厳しい現実の場である公務員の世界だからこそ、そこに至る過程では、複眼的で、多様な考え・見方を持ち、ふつうの多くの生活者が納得できる普遍性を生みださねばならないはずです。

山脇さん、≪複数的思考≫を、地方、国家を問わず、公務員の世界に広げようではありませんか。それが市民みなの利益になるはずですし、公務員の人たちの真の働きがいにもなるはずです。
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公務員の複数的思考は当然のこと (荒井達夫)
2009-08-30 18:55:13

「最後にはひとつの結論を出さざるを得ない厳しい現実の場である公務員の世界だからこそ、そこに至る過程では、複眼的で、多様な考え・見方を持ち、ふつうの多くの生活者が納得できる普遍性を生みださねばならないはずです。」(武田さん)

私もまったく同意見です。そうでなければ、国家公務員法の理念「国民全体の奉仕者として、公共の利益のために勤務し」は、実現できません。

公共哲学の基本思想においては、公務員が複数的思考を持たないことを前提にしてはならない、と考えています。
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民主主義をめぐる諸問題 (山脇直司)
2009-08-31 01:27:47

武田さん、荒井さん

31日から始まる国連大学グローバルセミナーhttp://www.unu.edu/gs/ は、東アジアの地域間の未来をめぐり、中国や韓国からの留学生を交えて、白熱した討論になりそうです。私の考える(グローカル)公共哲学は、ドメスティックやナショナルなレベルに留まることでは満足できません。今回は、アジアにおける民主主義の可能性を含めて、学生同士の討論をコーディネートしたいと思います。なお、ユネスコ主催の地域間哲学対話では、民主主義は、それ自体が「目的」なのか、それとも何らかの公共善実現のための「手段」なのか、という根源的問題から討議が始まるということも、情報としてお伝えしておきたいと思います。
あと、複数の意見を尊重するとおっしゃるとき、荒井さんや武田さんの意味での民主主義を否定するエリート主義者の意見も、お二人は尊重されるのかという問題(イシュー)も、帰ってきてうかがいたいと思います。私は、エリート主義には反対ですけど、「一つの意見」として公共世界から排除はしません。
ではまた。
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お応え (タケセン=武田康弘)
2009-08-31 14:12:47

山脇さん

簡単にですが、お応えです。

いま、いやでも世界は連関し、「ドメスティックやナショナルなレベルに留まること」など、どのような分野であれ不可能です。
しかし、世界的なレベルで評価され、世界に優れた影響を与えることができるのは、「足場」
をしっかりもった人だけです。大地に根を張らなければ、飛翔する想像力は、現実を変える力とはならず、空想に留まるほかありません。

また、当然のことですが、民主制社会では、独裁する自由、政府が特定宗教を勧める自由、天皇崇拝を強制する自由など、他の個人の自由を侵す「自由」は認められません。

「エリート主義」の思想は、それを語るのは自由ですが、市民社会が成立している日本において、市民の公共を支える役割をもつ「官」が、エリート主義を取ることは、ほんらいしてはならぬことでしょう。

民主化の途上にある他のアジア諸国には、日本が徹底した民主主義=「主権在民」から立ち上がる政治を実践することで、よい影響を与えることができますし、それが世界への貢献となるはずです。「自治」を行うためには何が必要なのかの探究は、普遍性をもちます。

最後に、民主主義とは、社会主義や共産主義のように予めの内容を持ちません。それは教育と同じで、特定の理念をもってはならず、枠組みを決めるだけです。個々人が出来るだけ広く見、考えることができるような仕組みをつくる不断の努力であり、その意味で「手段」の整備と拡充が民主主義だと言えますが、その実現の度合いを強めていくという意味では、政治の「目的」ともなるわけです。

では、セミナーの終了後、時間をとって、じっくりと議論しましょう。
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素朴に思い、感じたことです。 (荒井達夫)
2009-08-31 19:49:49

山脇さん。

間違っているかもしれませんが、素朴に思ったこと、感じたことを書いてみます。

憲法で「主権在民」を掲げながら、「国民一般の利益(公共)に反する国家の利益(公)があって良い」と考えることを「基本思想」としている国は、あるのでしょうか?
そもそも「国家の利益」とは、外交防衛問題などの対外的な問題を議論する中で、「国民一般の利益」を考えた時に使われる表現ではないか、と私は思います。
そうであれば、グローカルに公共哲学を考えた場合でも、「公」=「公共」となりますから、「公共に反する公」を「基本思想」にはできないはずと思いますが、いかがでしょうか。

また、社会を運営していくうえで、民主主義以外に採り得るより良い思想はあるのでしょうか。私は、現実にいろいろ問題はあるにせよ、民主主義よりも良い思想はないと考えていますので、その原点である「主権在民」に徹することが、人々にとってより良い社会を作るための最善の方法ではないか、と考えます。ですから、民主主義は「目的」か「手段」かと問うこと自体、とても変に感じるのです。私なら、根源的な問題として「なぜ民主主義しかないのか」と考えます。

さらに、頭の中で「民主主義は嫌い。全体主義が良い」と考えるのは、思想・信条の自由ですが、その考えを実行に移すことはできません。そのような思想を持っている人を、公務に就けることも許されません。民主主義社会とは、そういうルール社会だからです。

エリート主義については、先に桂木さんの思想を例に述べたとおりです。

コメント (5)
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