思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

シリーズ「公共哲学」(東京大学出版会)の基本方針は?

2009-08-28 | 社会思想
荒井達夫、山脇直司、武田康弘による≪公共哲学≫に関するコメントのやりとりが、字数オーバーしましたので、新たなブログとして以下に続きを出します。

シリーズの基本方針は? (タケセン=武田康弘)
2009-08-27 15:07:32

山脇さん

議論が錯綜するのを避けるために、ひとつ、基本的なことをお尋ねします。

東大出版会のシリーズ『公共哲学』には、四つの編集方針が、全巻の裏表紙に書かれていますが、あれは、編者のみなさん(山脇さんも編集委員ですね)の合意ではないのですか?

当然、読者が見れば、その方針の下につくられたシリーズだと思いますが。
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お応え (山脇直司)
2009-08-27 16:56:43

お応えします。私は編者ではなく、編集委員の一人にすぎませんが、1の活私開公の強調、3の公共性の担い手、4のグローカルに関しては、私が責任を持ちうる思想です。しかし2の公私媒介としての公共性という考えは、編者の金氏の考えであり、責任を持てません。

荒井氏へ (山脇直司)
2009-08-27 17:00:42

私の三元論は急に出したわけではありません。他の私の論文を読みもせず、金氏だけの話を聞いて、三元論は駄目だ駄目だと権威主義的に言い続けるなら、私は「一人の市民として」「官僚である貴方」に論争を挑むでしょう。
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更に確認です。 (タケセン=武田康弘)
2009-08-27 18:24:42

山脇さん

了解です。編集方針と記載されていても、それは、編集委員みなさんの合意ではないと言うことですね。やはり、金泰昌さんの意見なのでしょうか?

また、ご存知のように、わたしが問題にし、月刊『公共的良識人』紙において論争(哲学往復書簡)となったのは、金泰昌さんの【公と公共の区分けを要諦とする三元論(私・公共・公を三次元的に捉える)】です。

三元論的なものの見方一般を否定したのはありません。念のため。
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パネルディスカッションの経緯 (荒井達夫)
2009-08-27 21:18:44

今回の話題では、参議院のパネルディスカッションの経緯を知っておく必要があります。これについては以前、私が「立法と調査279号」に詳しく書きましたので、お読みください。その一部分を下に掲載します。
http://www.sangiin.go.jp/japanese/annai/chousa/rippou_chousa/backnumber/20080401.html

何より重要な点は、「公共哲学と公務員倫理」をテーマに、国会の調査機関が主催し、人事院の関係幹部職員のほとんが列席した公開討論の中で、金泰昌さんの三元論の思想が明らかにされた、ということです。
http://www.sangiin.go.jp/japanese/annai/chousa/rippou_chousa/backnumber/20080220.html

なお、ディスカッションのパネリストは、金泰昌さん、武田康弘さん、山脇直司さん、荒井達夫の4名です。


「公共哲学と公務員倫理」~パネルディスカッションを振り返って~

2.「学問としての公共哲学」に対する疑問

 近年、全国のいくつかの大学で公共哲学の科目が新設されており、広がりは速度を増していくと予想される。また、公共哲学を公務員試験の科目に加えるべきと主張する大学人も出ており、公共哲学の公務への影響は無視できないものになりつつある。しかし、私は、公共哲学が公務の世界で注目されていく中で漠然とした不安を感じていた。それは、「学問としての公共哲学」において通説的見解とされている、いわゆる「公・私・公共三元論」が憲法の民主制原理・国民主権原理に反するのではないか、と感じられたからである。
 公共哲学を公務部門に導入するに当たっては、民主制原理・国民主権原理との整合性は絶対条件であり、この点に関しては、わずかな疑念も許されないところである。ところが、「公・私・公共三元論」に対する疑念は膨らむばかりだったのである。特に『公共的良識人』(京都フォーラム)における金泰昌氏と武田康弘氏との連続対談において、これは明白なものとなった。『公共的良識人』は、佐々木毅・金泰昌他編『公共哲学』全20巻(東京大学出版会)刊行の元にもなった権威ある学術誌である。また、金泰昌氏は「学問としての公共哲学の最高権威」、武田康弘氏は「民間人の民主主義哲学者」であり、この二人の議論は学術的にも社会的にも極めて重要な意味を持っている。連続対談において両者は、「公・私・公共」と国民主権の理解をめぐって鋭く対立したのである。
 問題は、「全体の奉仕者」である公務員にとって生命線とも言うべき民主制原理・国民主権原理の関係で生じているのであり、現段階における議論を整理しておくことは、公務員の在り方や倫理を考える上で必要不可欠と思われた。そこで、金泰昌氏と武田康弘氏を含め、公共哲学の第一人者が参加するパネルディスカッションを行うことを提案することにした。公共哲学が公務員の在り方や倫理にどのように関係し貢献できるのか、を議論すれば、同時に「公・私・公共三元論」と民主制原理・国民主権原理の関係も整理できるのではないか、と考えたのである。このようなテーマのパネルディスカッションは、良識の府である参議院の調査機関が担当するにふさわしい事務であると思われた。

「公・私・公共三元論」について (荒井達夫)
2009-08-27 21:37:39

山脇さん

何度も繰り返しになりますが、私が問題にしているのは、シリーズ公共哲学の編集方針となっている、金泰昌さんの三元論の思想です。それは、「公」と「私」を媒介する論理であり、金さんがパネルディスカッションで示された、「公」(=国家の利益)と「公共」(=国民一般の利益)を明確に区別し、「公共に反する公があって良い」とする考え方です。これが主権在民の原理に反すると述べているのです。

従来の「公・私二元論」に対し、「公・私・公共三元論」は、今日、何人かの公共哲学関係者が、特にNPO等の公共的活動を哲学的に根拠付ける思想として主張していますが、オリジナルの議論は金泰昌さんによるものである、と私は理解しています。
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確認 (山脇直司)
2009-08-27 23:09:34

ちなみに、私の三部作『公共哲学とは何か』『グローカル公共哲学』『社会とどうかかわるか』を読んでいただければおわかりのように、活私開公、公共性の担い手、グローカルは重要な骨組みになっていますが、「公私を媒介とする公共」という考えは、一度も用いていません。ただし、「民の公共」に基礎をおく(主権とする)「政府の公」「私的領域」という三元論思想は、放棄できないものとして、用いていますし、さらにこれを「民主主義的・共和主義的」三元論として、発展・展開していく所存に変わりはありません。総選挙が終わり、私に時間ができた段階で、いつでも詳細にご説明しましょう。
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念のためです (荒井達夫)
2009-08-27 23:18:34

山脇さん

念のためですが、私は、三元論については、金泰昌さんの思想しか問題にしていません。また、「荒井さんの言っていることは、あまりにも当然のこと」という山脇さんの発言があったわけですから、尚更論争する意味はないと考えています。
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主権在民 (タケセン=武田康弘)
2009-08-28 00:11:40

わたしは、政府と官の位置づけ・役割・制度を、「主権在民」の民主主義原理から徹底して見直すことが必要だと考えています。
「公共哲学」は、まず何よりも「主権在民」の思想と実践を深化・拡大するために役立たなければならないーそれがわたしの基本思想ですが、山脇さん、荒井さんは、賛同されますか?
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まったく異論ありません (荒井達夫)
2009-08-28 00:26:51

まったく異論ありません。

我が国のような民主主義国家において、行政運営は「主権在民」の原理に基づく以外にあり得ない。また、「主権在民」の原理に基づかなければ、キャリアシステムの問題は決して解決できない。「主権の存する日本国民」、「国民全体の奉仕者」、「公共の利益」が、キーワードであり、行政運営の思想的土台となる公共哲学は、これらの理念の根拠を導き出すものでなければならない。公共哲学は、真に実践的でなければ意味がない。

そう考えています。
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当り前のこと!それを超えてさらに先へ! (山脇直司)
2009-08-28 01:35:31

少なくとも、私にとって、根本規範としての「主権在民」は、公共哲学の当たり前の出発点です。また、その先の理念として人権(自由権・平等件・社会権)と平和という二大柱も国是として忘れてはなりません。私の「民主主義的・共和主義的」三元論は、まさにそのための実践的な公共思想です。
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「公共に反する公があって良い」とは考えない (荒井達夫)
2009-08-28 05:50:32

「主権在民」の原理を徹底し、「公共に反する公があって良い」とは考えない、という点が確認できました。ようやく、まともな公共哲学の議論になりそうですね。結構なことと思います。
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「当然」の掘り下げが哲学 (タケセン=武田康弘)
2009-08-28 15:41:43

「倫理」は、人間のあらゆる営みの基底にあるものです。民主制社会に生きる人間は、民主的倫理を身につけることが求められます。わたしは、ブログ『民主的倫理』に、「端緒を明らかにし、経緯を明らかにし、結果を明らかにし、それに関わる人を明らかにする、こういう民主的言動が民主的倫理を生むのです」と書きましたが、「公共哲学」を論じるにも、このことを踏まえなければ、その議論は不毛なものにしかなりません。
正直に事実を話し、端緒と経緯と結果について、正確な情報を開示する。これは、民主主義を立場とするわれわれ三人に共通する基本ルール=倫理だと思います。

それを確認した上で、[主権在民]の話に戻ります。

1947年に文部省が発行した『新しい憲法のはなし』で、

「・・・そうすると、国民ぜんたいがいちばんえらいといわなければなりません。国を治めてゆく力のことを「主権」といいますが、この力が国民ぜんたいにあれば、これを「主権は国民にある」といいます。こんどの憲法は、いま申しましたように、民主主義を根本の考えとしていますから、主権はとうぜん日本国民にあるわけです。そこで前文の中にも、また憲法の第1条にも、「主権が国民に存する」とはっきりかいてあるのです。主権が国民にあることを、「主権在民」といいます。あたらしい憲法は主権在民の考えでできていますから、主権在民主義の憲法であるということになるのです。」

と説明されて以来、「主権在民」は、小学校で習い、誰でもが言葉としては知っているわけです。

ところが、それは、現実の政治においては形骸化してしまい、、官府が民の上に立ち、まるで政治家や官僚が主権者のように振る舞っています。

また、「公共哲学」の推進者のお一人、学習院大学法学部の桂木隆夫さん(法哲学と公共哲学を担当)の『公共哲学とはなんだろう』(けいそう書房・2005年9月刊)では、21世紀のあるべき民主主義の姿として、大衆の中の「エリート」とそれとは区別された「エリート」の育成が必要だ、と結論づけていますが、こういう公共哲学は、主権在民の徹底という私の基本思想とは違うと思いますが、山脇さん、いかかですか?
  
それどころか、「公共哲学」の最大の推進者=山脇さんの話では、東大出版会のシリーズ『公共哲学』の4つの編集基本方針を一人で決めた(その実力をもった)金泰昌さんの公式発言(参議院での討論)に見られるように、現在の日本国憲法下でも、「日本国の主権は、天皇に寄託されている」と言われます。また、「天皇の官吏から国民全体の奉仕者へというのは、今の日本国憲法から見ると同じことだ。余り変わっていない。」
とも主張されています。

民主主義の根幹=「主権在民」という言葉の表層の意味は、小学生でも知っているわけですが、その意味と価値を明晰に意識し、掘り下げ、そこからさまざまな現実問題を捉え、変えていく営みが何よりも大切だという私の思想・判断は、上記の現実があるからです。

一見「当たり前」と思われている言葉・概念・思想の大元=根拠を探ることで、新たな世界を切り開く営み=頭の使い方を「哲学する」と言う。新奇な造語をつくることや、多くの概念語を横並びに広げることは、理論趣味や衒学趣味という世界であり、ほんらいの哲学とは何の関係もない。わたしは、強くそう思っていますが、山脇さん、荒井さんはどう思われますか?
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ラウンドを改めて議論しましょう (山脇直司)
2009-08-28 18:32:58

武田さん
重要な問題提起を有り難うございます。「当然」の掘り下げが哲学だとのご意見は、私にとっては、当然のこと=自明の理です。
ご質問に、すべてお応えしたいのですが、当方、来週から約一週間行われる国連大学グローバルセミナーの委員を務めているため、準備を含めて、時間をそれに当てなければなりません。それが終わってから、別なラウンドを設けて、再開しましょう。基本的にヒューム主義者である桂木さんのことはよくわかりませんが、千葉大学の小林正弥さんにも、議論に加わって頂いたらどうでしょうか。
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了解。 (タケセン=武田康弘)
2009-08-28 21:46:28

山脇さん
了解です。楽しみに。
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一言 (青木里佳)
2009-08-29 08:36:48

今までの山脇さんと荒井さんのやり取りを読ませて頂いてましたが、ちょっと一
言失礼します。

山脇さんの「実にちっぽけな世界」という表現は、感情的になって書いただけだ
と思いますが、上から見下す傲慢な響きがありますね。
意見として言う・討論として述べるという道から脱線して、ただ相手を攻撃して
負かせようとしている子供のような言動にしか見えません。
山脇さんの説明も読んでいると、何が言いたいのかわからなくなってきます。
専門的な言葉(しかも英語に訳したものまである)や論点とは違う話が
だーっと並べられていて混乱してきます。
例えて言うなら、刀や手裏剣をバンバン投げてきて、最後には煙を巻いてドロン
と消えようとしている忍者のような感じでしょうか。(笑)
残された方としては「なんだったんだ!?」と唖然とするのと、まともに相手して呆れたという気持ちでしょう。
もっとシンプルに、冷静になって書き込んで欲しいと思います。
あーだこーだと言葉ばかりを並べて、まとまりがないと言い訳にしか聞こえなく
なってくる気がします。
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哲学とは己を知ること (タケセン=武田康弘)
2009-08-29 12:11:44

「哲学とは自分自身を知ること」とは、よく知られた格言ですが、タレスも言うように、この世でこれほど難しいことはないようです。
もちろん、わたし自身を含めて、立場上、人の上にたつ仕事をしている人(とりわけ社会的地位の高い人)は、たえず己を顧みると同時に、厳しい批判を浴びる「場」に進んで身を置くことが求められると思います。
他者の批判を受け入れ、己を変える努力を怠れば、哲学=恋知とは無縁な存在となってしまいますから。わたしは、子供たちからメタメタに(笑)批判され続けて34年目ですが、まだまだ修行が足りない!と思っています。

それから、山脇さん、
「桂木さんのことはよくわかりませんが、」とありますが、山脇さんは桂木さんの『公共哲学とはなんだろう』(けいそう書房)への長文の書評を書かれていますね。
わたしも金泰昌さんからの依頼で同書に対する書評を書きましたが。http://www.shirakaba.gr.jp/minchi/library/library20.htm





コメント (12)
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