思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

ウヨク学者のウソとデマの近現代史を、わたしたち民衆の伝承で、正しましょう。

2010-10-26 | 社会思想
与太郎堂

タケセンさん、そのとうり、実際に戦災にあった人でなければ、真実味に欠けますよね、
与太郎堂は、生まれ育ちも新宿です、母は浅草生まれの、杉並育ち、

母方のひいじいちゃんは水戸の天狗党の生き残り、
母方の婆ちゃんからは、震災(関東大震災)の恐ろしさを耳にタコができるくらい聞かされて・・・

かあちゃんからは、東京大空襲の恐ろしさをことあるごとに聞かされ、
新宿の古老達からは、戦争の悲惨さを祭りの社務所で夜の尽きるまで聞かされました。
因みに母ちゃんは、3月10日に深川不動の裏に住んでいたそうです。
命からがら、杉並の実家まで歩いて戻ったそうですが、帰って来たとたんに
その家の中にあった鏡は、ことごとく隠されたそうです。
母ちゃんは、その頃20歳前、やけどのひどさを見せないために、家の中にあった
鏡という鏡を家族総出で、隠したそうです。そうこうしている内に、山手空襲で実家
も焼け出されてしまうという、不幸を背負った婦女子であったかも?
今は、高尾の山のなかで静かに眠っとります。

中国の話は、地元新宿の古老達に、イヤというほど聞かされました。

オヤジは何も語らない人でしたが、物故した折、親戚から進駐軍との軋轢
のなかでいろいろあったようです、
聞きたくなかったけれど聞かされました・・・
人は、墓場まで持っていかなければいけないことが幾つかあるのかもしれません・・・

与太郎堂も若い頃は、祭りが好きで、アチコチお神輿担いで回っていました、
勿論深川も、浅草も・・・
そのたびごとに、顔を赤らめて、酒に任せて古老達が異口同音に
「戦争はいけねえ、」って言っていたのは、身につまされる思いでした。
本当に怖いことを知っている人は、本当の恐ろしさを教えてくれました。

だからこそ、残された者が真実を後世に語り継がなければならないのではと、思います
が。

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与太郎堂さん

ていねいなコメント、ありがとう。

わたしは、58歳、亡き父の体験談や小学生の先生の体験談からはじまり、中国での日本軍の恐ろしい話をたくさん聞きました。書くのもためらわれるような。

比較的最近では、東京新聞が連載で、元兵士の人の体験談を載せていましたし(凄まじい内容)、NHKテレビでは一昨年、詳細な南京事件のレポートをしていました。現場にいた元日本兵は、苦しみながら必死で証言していました。

タケセン

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sam
c-moonさんと同様、中国での大量殺戮のことを知ったのは、高校生のときに読んだ『中国の旅』でした。
ただし、それ以前からうすうす何か昔、とんでもないことをやらかしてるな、とは感じていました。戦時中、海外で何があったか語ろうとしない男たち。年寄りたちが在日について触れようとしない不自然な姿勢。何かいえないようなことがあったのだろうと私は子供なりに思っていました。
『中国の旅』はあちこちで話題を呼び、ここぞとばかりに戦前の日本をヒステリックに糾弾するサヨク、本に書かれた一部の間違い、一部証言者の嘘を誇大に宣伝してあたかもすべてが嘘で虐殺がなかったかのように本多勝一氏を糾弾するウヨク・メディアが現れたりしましたが、戦時中にとんでもない虐殺が行われた事実が明るみにされた点で極めて重要な書籍といえます。
ともあれ、その後出てきた数多くの、第三者の証言、加害者の証言を見ても大虐殺があったことは否定のしようがありません。私自身も燼滅(じんめつ)作戦(中国では、殺し尽くす・焼き尽くす・奪い尽くすの意を示す三光作戦と呼ばれた)に従軍した元兵士の壮絶な証言を直接聞いたことがあります。一般市民に対する虐殺の話です。事実を残さなければいけない、その一心で証言を続けている方でした。元従軍慰安婦の話も直接聞くことが出来ました。終戦直後、証拠(証人)隠滅のために殺された慰安婦も少なからずいたといいます。

国際的には、アジアでは特に、こうした事実は常識として知られているわけですが、加害者である日本人だけが知らないというのでは、アジアの国々との健全なお付き合いなど出来るはずがありませんね。
それに、加害の事実すら知らずに、東京大空襲、原爆の非道さを訴えても首を傾げるばかりでしょう。
(ドイツでの)ドレスデン大空襲については連合軍の責任を問う動きが出ていますが、これはドイツ自身が犯した罪を正面から受け止めてきたからこその結果です。
東チモールやカンボジア、それに旧ユーゴやルワンダで行われた虐殺に日本人が何もいわない理由もこの辺り(自分自身の罪を認めないこと)にあるのかもしれません。

ちなみに、私は下町生まれの下町育ち。母は東京大空襲であちこち逃げ惑い、多くの友人知人の死に直面しました。海外で何があったのか知らない(知らされない)母にとっては、戦争は被害の歴史でした。
戦争に行っていた父は軍隊でひどい目にあった話はしますが、一度たりとも加害の話をしたことがありませんでした(結核で本来なら内地送りのところ、経理が出来たため部隊が手放さなかった)。人を殺めたことはないとは言っていましたが、広東軍の精鋭部隊にいたのですから部隊が何もしなかったとは思えません(聞いても話しませんでした)。
先日、中国での反日デモのニュースが流れていたせいでしょう。突然、87歳になる父が、
『(中国人に対して)ひどいことをやったからなあ。』
と話し始めたのです。
兵隊たちが遊び半分で捕虜を相手に刀の試し切りをしていたというのです。一度では首を切れず何度も切りつけ、最後は刺し殺していたと言っていました。『人間だと思ってなかったからなあ、(反日デモは当然)。』
同様の話はルポで読んだことがありましたが、直接父から話を聞くことになるとは思いませんでした。
直接戦闘に出なかった父ですが、戦闘現場で何があったかは知っているはずです。多分、まだまだあるような気がします。
もう先の見えた人生、隠し事をしても始まらないと思ったのでしょうか。機会があればもっと聞いておこうと思ってます。
事実は事実として受け止めるのが正道だからです。

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Cmoon

僕が『中国の旅』を読んで感じたのは、祖父が話してくれたこととあまりのも類似している……という衝撃でした。
少し時代は遡るのですが、祖父は志願兵として旭川騎兵第7連隊に属し、日露戦争の旅順攻略に従軍しました。旭川の連隊は、消耗部隊として語られ、現在も厩舎が保存されています。
何とか生き残ったのでしょう、その後、南満州鉄道の守備隊に配属されました。ポーツマス条約で南満州鉄道をロシアから割譲された時点で満州地域(中国東北部)の実効支配が始まったと思われます。
たしか祖父は奉天に配属されたのだと記憶しています。(小学生の時聞いたことなので地名の記憶は正確ではないかもしれません)
そんな状況にいた祖父が、しみじみ話したのが、中国人不満分子や馬賊の虐殺です。
『中国の旅』に書かれていた”100人斬り”のようなものです。
5~6人跪かせ、見せしめと試し切りです。それも軍刀を持った将校が遊び半分で行っていたというのです。その描写はここに書くことできないほど残虐でリアルです。
この辺りは、時代に時間的ずれはありますが、Samさんがお父様から聞かれたことと重なります。時間のずれが逆に”皇軍”の本性を感じ取ることができます。
日露戦争以降、中国東北部を実効支配し、関東軍による侵略と支配までこのようなことが、繰り返えされていたことが祖父の話から明らかです。

僕の年齢で(51歳)で日露戦争に参加した祖父を持つのは、少ないと思います。子どものいなかった祖父母に、父が青年期に養子に入ったことで、祖父母から、明治時代の様子やその後の流れを聞くことができました。祖父母とも明治10年代の生まれで、しかも共に長生き(88歳)だったので、たぶん親から聞いた話なのでしょう。幕末の様子も聞いています。

父ですが、終戦間近3ヵ月ほどの軍隊経験なので、戦場の経験はなく、聞かされたのは、軍隊の厳しさと、徴用で連れてこられた朝鮮人への激しい差別です。父の兄が二人、中国で従軍していますが、ひとりはその後ニューギニアで戦死、もうひとりの伯父からは、何も聞いていません。
あまり話したくなさそうでした。

いずれにせよ、祖父が小学生に聞かせられないようなことを話してくれたことで、僕は歴史に特に近現代史に近付き、その後学ぶことができたし、真実に近付くことができて、祖父に感謝しています。

本多勝一さんは『事実とは何か』という本を著し、”事実とは何か”をルポルタージュの中でも語りかけています。本多さんが、書かれていることの真偽については賛否両論ありますが、事実を追及する姿勢を僕は学びました。

祖父が話してくれたことも、事実としてこの機会にこちらに書かせていただくことにしました。

コメント
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