思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

平和の維持は、教育にあります。

2010-10-28 | 恋知(哲学)
「戦争に不可を言うだけなら簡単だが、では、どうしたら平和を維持できるか?
タケセンさん、そのために哲学をどのように役立てますか?
サンデル白熱教室では期待できません。「オバマは原爆投下について謝罪すべきか」などという無意味な問いを論じ合うようでは。」

という茶所博士さんの問いに対してのお答えです。
この問題を考えるには、人間の生の基底をつくる「教育」が核心となりますので、そこに焦点をあてて書きました。


 悪は許容しても、最悪を避ける、という現実的思考と現実感覚を養うこと。
そのためには、幼いころからの現実問題を現実的に解決する思考=対話の訓練が必要です。わたしが長年主張し実践している自分の頭で考え・対話し・決定する能力(思考力・対話力・自治力)の育成が鍵となります。
 最悪をさけるためには、毅然と妥協の双方が必要です。原理的思考の明晰化によって得られる大胆な現実対応の能力が求められます。ホドホドやダマシダマシも大事です。
そのような能力の育成は、机上の勉強だけでは不可能です。実際=現実への上手な対応は、実践の中で思考する訓練を繰り返さなければなりません。こどもたちに、日々、家庭でも学校でも「生活」の仕方を自ら決めさせる練習=試行錯誤の日常化が基本です。宙に浮いた想定=言語ゲームはなく、現実の話=何がほんとうかを目がけた議論を生活の中に組み込むのです。その作業は、子どもにとって大きなエロースでもあります。実際に自分で考えて決める体験は、ワクワク・ドキドキします。
 その意味で、現在の学校教育はほとんど正反対の教育をしています(部活と受験知教育により生徒に時間を与えずに自己決定の機会を奪う)、家庭もまた、勉強とは受験勉強のこと、としか捉えていませんから(ほんとうの知的教育がない)、この変革は容易ではありません。わたしは私塾で34年間不退転ですが。

 また、最悪を避ける、ということは、大損をしないこと=コスト計算ができる能力の育成でもあります。冷静に損得を考える力と同時に、その損得に意味と価値を与える人間的な「善美」の探求が不可避です(何がよりよいか、より美しいか、より魅力的かを探る営みを生の基底に持たないと、現実的な損得も意味を失います)。ほんとうによいこと・美しいことは何かを求め、憧れるのを恋知(哲学)の営みというわけですが、これは幼い子は、ほとんど誰でもがしています。なにがほんとうか?それを目がける心が肯定され、励まされ、評価されて育つこどもは、たとえ生活苦に陥ったとしても最悪の選択をしない、というよりそれを拒否する大人になるはずです。自分の頭で考えることを肯定され、愛されて育った子どもは、馬鹿げた選択をせず、「善美という土台に立って現実的な損得計算ができる」清さと逞しさを併せ持つようになるのです。

 以上、教育の話に比重をおいてその芯について簡単に書きましたが、どうでしょうか。ご意見をお待ちします。

 PS.戦前、戦中にも石橋湛山(戦後に第55代総理大臣)のような偉大な先達がいましたが、彼がなぜあのように優れた思想を持ち、現実の中でそれを実行し続けられたのか、それを知るのはとても有意味です。彼は早稲田の哲学科出ですが、その師は実践的哲学を説いた田中王道でした。また、経済誌の発行・執筆・編集という仕事も興味深いですよね。


武田康弘


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コメント

内田卓志

デューイ・王堂・湛山 武田の民知


「最悪を避けること、現実的思考と現実感覚を磨くこと」、
ここが大切な思想と思います。しなやかで、柔らかな、それでも芯のある思考。原理の上に立ったバランス感覚ですね。本当に重要です。
その意味で石橋湛山は、稀なる思想家でした。その師の、田中王堂は正に「生活の哲学」を主張していたのです。
 王堂の生活の哲学の核には、「徹底個人主義」という思想がありました。彼は、徹
底個人主義を原理主義として言ったのではなく、個人主義という立場も、欲求の限りな
き拡大により利己主義に転化するおそれがある。それを「整斉」すること、そのことに
も重きを置いたバランス感覚ある思想でした。それを今までの個人主義と峻別して彼
は、徹底個人主義を呼んだのです。(当然欲望や欲求を認めての話ですが・・・)
 その思想を湛山が引き継ぎ、発展させたのです。そして、王堂の思想はアメリカ哲
学の良心であるジョン・デューイの哲学からの影響が大きいと言われます。
 つまり、デューイ・王堂・湛山という系譜を考えることができます。この系譜に
は、武田さんが言っている「民知」という知のあり方の真髄ともいえるものが、窺われると思うのです。
湛山の戦いは、大いなる知恵の塊です。石橋湛山は民知の思想家でもあったのです。

 中国との戦争のこと、また話します。一点だけ、戦略爆撃を最初に始めたのは、重
慶での日本軍だったこと。それは、ゲルニカや東京より早かったのです。それは、徹底的
な無差別爆撃の人殺しだったのです。その後の東京のように。合掌。 
          
 内田

コメント (1)
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