思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

AC=反復「道徳」の不愉快と、金子みすずの詩

2011-04-06 | 社会批評

ここまで執拗に繰り返されると、もやは「言葉と映像による暴力」とさえ感じられ、とても不愉快な「AC」というCM。

集団同調を強制するかのような「道徳」の押し売りは、許し難いもの。

その中で、金子みずずの詩だけは、何度繰り返されても、不愉快どころか、気持よい。よい音楽のよう。

彼女の詩がいかに優れているか。文学=詩的言語の理想に到達していることを知った。

外なる価値意識に少しも汚されずに紡がれる声の偉大さを。


武田康弘


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mixiコメント

ざらすとろ2011年04月06日 12:06
しかし金子みすゞに対する冒涜のように思えてきます。
あのような不幸な死に方をした事を考えると悪い冗談としか思えません。


タケセン2011年04月06日 12:40
確かに「冒涜」かもしれませんね。
悪い冗談としか思えない「冒涜」。けれども、その「冒涜」をものともしない強靭な力、平明な日常語による語りの歌が、驚くほどの高みにあることを万人に明かす。ただ感服するのみ。


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はりやー

電力会社の役員がズラリ

http://www.ad-c.or.jp/manage/board.html
ここで「電力」と検索すると
出るわ出るわACの理事に電力会社の役員がズラリ


金子みすずさんの詩は皆の心に響いたのか
色々とパロディが出ていますね
優れた詩は時代を超えると実感しました


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 「わたし」として生きる (染谷裕太)

学校の道徳はもちろん、会社でもテレビでも新聞でも、
人に親切にするとか、人に迷惑をかけないとか、
他者をたてることは教えられても、
自分がどのように思い、考えるかということの重大さを教えられたことは
たしかなかったと思います。
あったとしてもそれは弱く、「自分の意見を持とうね」とか
「周りに流されないように」とかその程度のもので
「わたし」が生きているのだ、ということをハッキリと
自覚させられるものはありませんでした。
「わたし」が生きているのだ、ということをハッキリと意識させられたのは
タケセンの塾のみです。

誰かに親切にしたり、気遣ったりするのは良いことだけど
そうやって他者を思っているのは一体誰なのか?・・・。
出発点となっている「わたし」を自覚せずに、他者を先立てたら
一体「わたし」はどこにいってしまうのか。
そうやって自己欺瞞をし、それが当然のようになると
口先では他者のためといいつつ、
心の奥底では自分ためという、乖離がおこり、
他者のためどころか、その逆になるのではないか。
宗教の勧誘なんかが典型だと思います。
消せないはずの「わたし」を消した上で言う
「あなたのため」という言葉の気持ち悪さ。
コメント (3)
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