13世紀イギリスにはじまる「議会」は、王と貴族の対立を背景に生まれたのですが、次第に民主主義(=人民による支配)の背骨に成長していきます。
17世紀、王権神授説を掲げて「議会」を軽視し、議員を逮捕しようとしたイギリス国王のチャールズ1世は、議会軍を率いるクロムエルに破れ、裁判にかけられ「国民の敵」として処刑されました。いわゆる清教徒(Puritan)革命です。
「議会」を軽視すれば、「国王」でも逮捕され死刑になる。これは近代民主主義を象徴する事件です。イギリス国会議事堂(裏門の正面)には、今も王を処刑に導いたクロムエルの像が立っています。
日本の明治憲法(「大日本帝国憲法」)は、現人神である天皇の恩寵によって臣民に与えられるという欽定憲法で、「法の前の平等」ではなく「天皇の前の平等」から始まりましたが、それでも「大正デモクラシー」期に至り、「民本主義」(吉野作造)という名称の元に、立憲君主制の民主主義に成長していきました。日本は、戦前においても「議会」は、実際上、国権の最高機関としての地位をもち、天皇も議会の決定に従わされたのです。
「言論の自由」は民主主義の絶対要件ですが、国会議員は、「日本国憲法」(51条)のみならず、「明治憲法」(52条)でも、議院内での発言(演説・討論)に対して、院外で責任を問われることはありませんでした。
しかし、国会での自由な議論により決定するという民本主義の原則は、1940年(昭和15年)に、国会議員が自ら終止符を打ってしまいました。第75回帝国議会における斉藤隆夫議員の「反軍演説」に対して、多くの国会議員は、「聖戦(天皇の戦争)目的を侮辱するものだ」として、斉藤議員を除名したのです。「国会」が、「政府」(天皇制政府)におもねり、言論の自由を自ら圧殺したために、【国家権力】はコントロールする仕組みと力を失って暴走し、ホッブスのいう「リバイアサン」(冷酷非情で不死身な怪物)が出現したのでした。
ドイツでも、ヒトラーが独裁権力をほしいままにできたのは、国会がヒトラーへの「全権委任権」を可決したからです。それにより、立法権をも政府に与えてしまいました。言論の府である国会(全国のあるゆる地から選出された議員)による立法ではなく、政府がすべての決定権をもち、法律を決められるということは、民主主義の死を意味しました。
「日本国憲法」第41条―国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である。
が、どれほど深く大きな意味を持っているか。わたしは、それを言いたくて、長々と書きました。
現在のわが国は、「検察庁」という一行政機関が、絶大な力をもち、法務省の事務次官及び課長級以上のほとんどを検察官が占めるという異常な事態にあります。村木さんの冤罪事件をはじめとする国策捜査(「官知主義」を守る)が生じる温床は、人事と組織にあるのです。政治が特捜検察にコントロールされてきた日本の現実を変えるには、国権の最高機関である国会の力が必要です。
国会からの行政監視は、民主主義にとって極めて重大な仕事です。わたしは、参議院の行政監視委員会の活躍に期待しています。主権者である国民の目線で、検察庁への監視を強めることが必要です。また同時に、マスコミ人の自覚も促したいとい思います。
武田康弘